マネージャーとアシスタント

「これコピーとって」
「はい」
「あの案件、総務に確認とってくれへん?」
「はい、ただいま」
 私は新米アシスタント。
 指示を出しているのはマネージャーの明石さん。私の数年先輩なんだけど、超有能でおまけにかっこよくて、案件をいくつも抱えていて外部からの指名も多い。入社後すぐにこの人と組まされたことは幸運なのだと思う。
 ただ仕事の量が半端なく多くて、私は大量の指示とともに常に走り回っている。仕事をこなしていると昼食をとり損ねることも珍しくない。時々は明石さんがストップをかけてくれるものの、彼も寝食を忘れていることが多く、一仕事終わったら泥のように倒れ込んでいることもしょっちゅうだった。
「はあ……終わった……」
 深夜二時。机に突っ伏している明石さんにそっと毛布をかけ、私もへとへとになりながら床に座り込む。もはや椅子までたどり着く気力も残っていない。
「……おおきに」
 明石さんは毛布の感触で目を覚ましたらしい。時計を見やると、伸びをひとつした。
「ああ……終電逃してしもうたんか。タクシー代、少ないけどこれ使い」
 そう言って彼は自分の財布からお札を一枚取り出して寄越した。
「えっそんな、悪いですよ」
「いや、経費で精算すんねんけどな」
「あっはい、すみません……!」
 てっきり奢りかと勘違いしてしまい、顔から火が出そうなほど恥ずかしかった。
「明日出社したら精算の仕方教えるから、領収書取っといてな。明日は午後からでええよ。ほな、帰りましょか」
 帰り支度をし、二人で会社を後にする。大通りを歩き、程なくしてタクシーを捕まえた。
「明石さん、お先にどうぞ」
「自分は歩きです」
「えっ、家近いんですね」
 このあたりはオフィス街なのに、家賃だって相当高いはずだ。
「数年するとみんなそうなります。電車逃すくらいなら家が近づいてくるほうが楽やって気づくんや。はぁアホくさ……働くの向いてへんのに」
 そう言いながらため息をつき、ゆっくりと首を回す。働きたくない、は彼の口癖のようなものだけれど、このような有能な人が言うにはあんまりな冗談だと思う。
「ほな、また明日」
「はい。お疲れ様でした」
 そう言い、タクシーに乗り込む。窓越しに明石さんがにこっと微笑んでみせたから、私もつられて笑みを返した。


 今日は比較的仕事に余裕がある日だった。比較的、と言っても飲み物を途中で口にできるくらいの忙しさなのだけれど。明石さんも合間にコーヒーを一口すする。
「コーヒー切れてもうた」
「淹れてきます」
「あとついでに自販機からお菓子買うてきて。何でも好きなのでええから」
 引き出しから革のカード入れを出してきて渡される。言われるがままに受け取り、給湯室でコーヒーを淹れ、お菓子の自販機のラインナップを眺めた。明石さんの好きそうなお菓子は何なのだろう。一緒に働いているけれど、私はあの人のことを何も知らない。
 しばらく考えて、お腹にたまる棒状のバウムクーヘンを選んだ。これなら手も汚れないし、仕事しながらでも気兼ねなく食べられる。ピピッと電子マネーで精算し、自動販売機からお菓子が落ちてくる。
 部屋に戻り、明石さんの机の邪魔にならないところにそっと置いておいた。
「おおきに。はいお駄賃」
「え」
 買ってきたばかりのバウムクーヘンをよこされて、私は固まった。
「それ、明石さんが召し上がるものかと思って……」
「好きなのでええって言いましたやん」
 そういう意味で言ってるとは思っていなかった。てっきり明石さんが食べると思ったから、私の好みではなく、一番嫌われなそうなものを選んできたのだ。
「もしかして好きでもないの買うてきてしもたん?」
「いえ、あの……食べやすいものを、と思って」
 いたたまれなくてどんどん声が小さくなる。
「あー、いじめたいわけやあらへん。すんまへんなあ、今日はこれで堪忍しといてもらえる?」
「ありがとうございます……」
「次は自分の好きなの買うてな」
 受け取るのも申し訳ないくらいだけれど、懲りずに次もお駄賃をくれるつもりらしい。明石さんはこう見えてとても気遣いのできる人なのだ。


 お昼のベルが鳴った。この会社にはお昼などあってないようなものだけれど、今日は昼食をとる余裕があるようで、明石さんから例の電子マネーを渡される。 
「お弁当買ってきてくれへん? ついでにクリーニングとってきてくれる、これ伝票」
「おい明石、さすがに越権行為だぞ」
 隣で仕事している長谷部さんが割って入ってきた。
「マンツーマンで仕事してるとパワハラになりがちで、そういうのは我々が気をつけなければならんのだ」
「こんくらい別にええですやん。パワハラって感じてます?」
 急に話を振られたので「いえ、特には……」と答える。
「そういうことじゃないだろう明石!」
 長谷部さんが説教をはじめるが、明石さんはしらーっと右から左へと受け流している。それを聞きながら私は身を小さくしているしかない。
 私たちの生活は、仕事がほぼ全てといっていいくらいで、仕事の隙間にプライベートをこなすしかない。
 長谷部さんはおそらく正しい。越権行為といえばそうなのだろう。けれど私はそれを理由に断ることなどできなかった。明石さんは朝から晩まで働きづめで、これをパワハラといって断ってしまったら、おそらく彼の生活は成り立たない。そう思ってしまうのだ。


 午後になると明石さんよりさらに上の立場の人、鶯丸部長が様子を見に来た。
「どうだ。やっているか」
「はぁ、まあ。ぼちぼちですなぁ」
「新人との意思疎通はうまくいっているか」
「うちのアシさんは働きもんですしなぁ」
 鶯丸部長はしばらく明石さんと話した後、私を少し離れたところに呼び出した。
「彼の下で問題なくやれているか」
「はい、大丈夫です」
「おかしなことを言われたり、嫌だと感じることがあればすぐに相談しろ。自分を大切にするんだ」と言われ、ひゅっと声が出そうになる。さっきの一件が上に伝わってしまったのだろうか。
「大丈夫です、問題ありません」
 やっとのことで声を絞り出す。そんなにおおごとになるようなことだったのか。確かに越権行為でも声を荒げることなく、何も考えず指示を受けていたのも事実で、それはその方が楽だったからだ。ここで不和を起こしたくない、と思う。
 明石さんは確かに仕事の範疇を踏み越えてくるけれど、私のことも考えてくれるから苦にならない。それではいけないのだろうか。


「大丈夫? いじめられたりしてへん?」
 席に戻ると明石さんが冗談めかして言った。
「いえ、大丈夫です」
「さよか」
 明石さんは軽く微笑むと、すぐに仕事モードにチェンジする。
「早速やけど今度のプレゼン資料、二十部コピー出しといてくれる」
「はい」
「イベントの稟議書作らんといかんねん。作れる?」
「作り方教えてください」
 二人並んでパソコンに向かう。テンプレートを開き、指示された通りに入力していく。
 しばらくして明石さんがぽつりと言った。
「結婚せぇへん?」
「はい。……えっ?」
 仕事の指示出しと同じように何の気負いもなく声をかけてくるものだから、ついいつもの調子で返事してしまった。隣を見ると、普段と全く変わらない明石さんがいた。
「おー。返事しましたな。油断大敵やで」
「えっと……? 結婚、て」
 頭がついてこない。結婚? 誰と誰が?
 私と明石さんは仕事上の上司と部下で、そもそもプライベートの話なんか一切したことがないのだ。
「これもパワハラになんの?」
「いえ……さあ……。じ、冗談ですよね?」
 そう返すのがやっとだった。
「冗談、ねえ。まあ現実は厳しいっちゅうことやなあ……」
 気落ちした声が聞こえてきて、どうやら本気だったらしいということを知る。
「彼女さんとか、いないんですか」
「あんなあ。こんな生活してて、一日中あんさんの顔をずーっと眺めてるっちゅうのにどこに彼女いる隙があんねん」
 そんな風に意識されているなんて、知らなかった。じわじわと顔が熱くなってくる。
 痛いほどの沈黙が場を支配し、私は根負けして声を上げた。
「……あの」
「ああいや、断ったって別に扱いが変わるとかあらへんから安心しぃ」
「いえ、そうじゃなくて……」
「……ん?」
「順番が違い、ません?」
 声が震える。言ってから、明石さんは拳でもう一方の手のひらをポンと打ちつけた。まるで初めて気づいたような顔だった。
「つまりその……お付き合いから始めたい、と思うんですけど……」
 言いながらどんどん声が小さくなる。明石さんの顔が赤くなって、恥ずかしそうに手で覆った。
「……先に言われてもうた。いかんなあ」
 そう言って明石さんは椅子を寄せてきて、私の肩に手を回してきた。仕事の同僚ではあり得ない距離。そう思うとドキドキしてくる。
 明石さんは周りの誰にも聞こえないよう耳元でささやいた。
「ほな、よろしゅう頼んます」

 明石さんはそのまま耳元でぼそぼそとしゃべった。細かい雑用や私用まで嫌な顔ひとつせずこなしてくれること。細かいことに気がつくこと。そんなところに惹かれたのだという。
「仕事とはいえ、よぉ気がつく子やなぁと感心してたらいつの間にか目で追ってましてん」
「あ、ありがとうございます」
「終電逃したときにな、うちやったら泊めてやれるのになあと思いましてん」
「そ、そうですか……」
「今度からうち使うてええで」
「うう……」
 どうして真昼間から口説かれているのだろう。仕事中なのに。頭が爆発しそうだ。
 私は耐えきれず、顔を覆って机に突っ伏した。
 明石さんは満足したように笑い声を上げ、ポンポンと私の肩を叩いた。
「さ、気が進まんけど仕事しよか」
「……はいっ」
 そうだ仕事中なのだ。起き上がってモニターをにらむが、なぜか私の肩に手が回ったままだ。
「あの……近すぎません?」
「そないなことあらへんでっしゃろ?」
 その後、事情を知らない長谷部さんに鬼のような形相で問い詰められたのだった。