風を切って

 世間は夏。じわじわとセミの鳴き声が聞こえてくる。
 私の通う大学の敷地はとても広い。自然豊か、と言ってしまえば聞こえはいいのだけれど、実際は虫も多いし移動も大変。蚊みたいな大きな虫を初めて見たときは変な悲鳴をあげてしまったし、むささびが飛んでいたという目撃談もあるらしい。
 寮は敷地の中にあって通学には便利だけれど、私のような寮住まいには乗り物の持ち込みは許可されていないので、移動はもっぱら徒歩だ。そんな時、通いの同級生がうらやましく思ったりする。
 ポッポッポッ、と後ろからのどかなエンジンの排気音が聞こえてきた。私は振り向かないけれど、それが何なのかわかっている。同級生、明石国行の乗っている原付の音だ。間もなくそれは私を追い抜いていき、颯爽と駆け抜けていく。風を切って原付に乗るのはどんなに爽快だろう。私は夏の日差しを浴びながらとぼとぼ歩き、そのようなことを考える。
「おー、明石!」
 派手なジャージの男に呼び止められてエンジンの音が止まる。彼は獅子王、学内では知らない者はいないだろう。金髪のみつ編み姿はとにかく目立っていた。
「……何ですのん」
「いいな、その原チャリ。俺も後ろに乗せてくれよ! ちょっと詰めてくれるだけでいいからさ」
「いや、普通に道交法違反やし……」
 明石は原付を引きながら獅子王と歩き始めた。私はその後ろをついていく格好になる。盗み聞きするつもりはなかったのだけれど、彼らの会話が聞こえてくる。
「ちぇっ、つれねぇの!」
「そないなこと言われましてもなぁ」
 彼らとは同じ学部だけれど、すれ違ったら会釈するくらいでろくに会話などしたことがない。彼らはまるで世界の中心にいるみたいにキラキラしていて、色々な人が集まってくる。私とは縁のない遠い世界の存在だ。
「いいよなー通学生は原チャリとか乗っちゃってさー。俺は寮だからさ」
「獅子王はんも一人暮らしすればよかったやん」
「うちはじっちゃんがうるさくてさ……」
 彼らの世間話を耳にしながら、とぼとぼとついていく。敷地内は木が生い茂っていてところどころ日陰になっているから、いくらか過ごしやすくはなっているのだけれど、それでも歩いているとだんだん汗が吹き出てくる。次の講義がある6号館はまだまだ先だ。

「……さん! ……さんもそう思うだろ?」
「……っは、はい?」
 まさか話しかけられるとは思わなかったので思考が遅れた。顔をあげると、獅子王と明石が振り向きながらこちらの言葉を待っている。
「だからさ、原チャリいいよなーって」
「そ、そうですね……! この学校広いですもんね!」
「ははっ! なんで敬語?」
 獅子王に笑いかけられて汗が吹き出る。
 またやってしまったらしい。普通に返しているつもりなのだけれど、私はどこかずれているらしい。こうやって笑われるのが常なのだ。
 うっと言葉がつまったまま二の句が継げずにいると、獅子王がフォローしてきた。
「ごめんごめん! 馬鹿にしたわけじゃなくてさ……同級生だろ? そんなに硬くならなくても」
「そ、そうだね……あはは」
 太陽のような笑顔に引っ張られて、私も笑顔を浮かべる。彼の周りにはいつも人が集まっていて、その理由がわかった気がした。
 しかし私は内心冷や汗をかいていた。どこか変じゃないだろうか。浮いていないだろうか。笑わせるようなことを言ったつもりはないのだけど「君って面白いね」などと返されることがたまにある。それは文字通り面白いという意味じゃなくて変な人の婉曲的な意味だって、遅まきながら気づいてきたのだ。ちりちりと頭の奥を焼けつくような痛みが焦がしていく。
 そのやりとりをぼんやりと見ていた明石が口を挟んだ。
「まあまあ。自分には自分のペースってもんがあるもんでっしゃろ」
「え……」
 私はびっくりして足が止まってしまった。そんなことを言われたのは初めてだった。
「んだよ明石! せっかく仲良くなれたと思ったのにさー!」
「いやいや、完全に怯えた小動物ですやん……。獅子王はんみたいなヤンキーがグイグイいったら一般人ビビってまうで」
「誰がヤンキーだ! 俺は善良な一般人だろ?」
「さあ、どうでっしゃろなぁ……」
 会話しながら先を行く二人の後をとぼとぼと歩き始める。状態は最初と同じだけれど、状況はさっきより悪い。うまく会話ができなくて、それで省かれた格好になったからだ。いつもこうだ。いくら勉強ができるようになったって、大学生になったってこの不器用さは変わらない。
 少しずつ歩みを遅くしながら、二人との距離を取っていく。このままフェードアウトしよう、そうしよう。
 そうこうしているうちに目指す6号館が近づいてきて、顔見知りの女子が歩いているのを発見し私は手を振った。
「おっ、じゃあまたなー!」
 獅子王から無邪気に手を振られて、私は再びびっくりしてしまう。その隣で明石が軽く会釈をしているのが視界に入り、なぜだか赤面してしまった。
 友達が「えっ何? どういう関係?」と駆け寄ってくる。
「知らない……。途中話しかけられただけ」
 と答えるのがやっとだった。


 それから、彼らのことを無意識に目で追うのが習慣になった。
 彼らは人気がある。もちろん話しかけていく女子も多い。他にも陸奥守、豊前などといったイケメンとよくつるんでいるらしい。御手杵、と書かれたジャージの人とよく食堂でご飯を食べているのを見かける。なんて読むんだろう。
 私はあの輪の中に入っていくことなどできない。ただ遠くから時折走る原付の背中を眺めているだけ。明石の前髪が風になびいている。ゆるやかなくせっ毛がヘルメットでくしゃっと潰れて、脱いだ後は赤いピンを口にくわえてつけ直す仕草をつい目で追ってしまう。授業中はよくだらっと机に突っ伏しているけれど、時折ノートもとっているようだった。意外な姿だ。
 私も少ないながら友達ができた。地道に講義に出席して、友達とおしゃべりしたりして。充実した学生生活。時折キラキラした人たちを遠くで眺めて、かっこいいなぁなんて憧れたりして。それでいいのだと思う。彼らとは住む世界が違う。手が届くような存在ではないのだ。
 この間話しかけられたのは何かの間違いだったのだと思う。たまたま私がそばを歩いていたから、気まぐれに話しかけてきたにすぎない。彼らにとってただの村人A、そう思っていたのだけれど。


 ふう、ふう、と息を吐きながら、私は寮から6号館への道を歩く。夏の日差しと、重いショルダーバッグが体力を奪っていく。
 ポッポッポッ、と例の排気音が聞こえてくる。それはすぐに私を追い抜いていくという予想を裏切ってスピードを落とし、ぽすん、と間抜けな音を立ててすぐそばで停止した。
 ゆっくりと首を横に向けると、ヘルメットを被ったまま原付を降りて手押しする明石がいた。
「どーも」
「こ、こんにちは」
 ゆるりと会釈をする明石を目の当たりにして、思考が止まる。
「いやー暑いですなあ」
 こう暑いとやる気出まへんわ、と彼は言った。
 それから講義のことや今回の課題のことなど、なんか適当に世間話をしたのだろうがろくに覚えていない。どうして私のとこで止まったのだろう? わざわざ私に声をかけるために? とパニック状態だったからだ。暑さとは別に汗がだらだら流れてくる。ジーワジワ、ジーワジワとセミの鳴き声が思考の邪魔をする。
「6号館遠いねんなあ」
「そうですね……」
「この暑いのに、よお歩きますなあ。寮生は大変やなぁ」
 原付を手押しする明石と連れ立って歩く。この人は、どうして歩いているのだろうか。もしかしてこのまま一緒に6号館まで行くつもりだろうか。そんなまさか。
 すぐ会話は終わるかと思っていたけれど、私のたどたどしい言葉にも明石は辛抱強く待って話をしてくれた。柔らかいひだまりのような微笑みを見せてきて、そんな顔もするんだ、とドギマギしてしまう。
「その、バイク。いいですねえ」
「あーこれ? 知り合いに安く譲ってもらいましてん」
「いつも見てますけど、風を切って走るのって、気持ちがいいだろうなあって」
 私の言葉に明石が沈黙する。また何かまずいことを言ってしまったのだろうか。あ、もしかして「いつも見てた」なんて言っちゃったから気持ち悪がられたのかも。謝ったほうがいい? どうしよう?
 だが、返ってきたのは全く別の言葉だった。
「……乗ってみます?」
「え?」
 私の思考が止まる。
 なんて返すのが正しいんだろう。だってあの獅子王が断られているのに、なんで私に? もしかして冗談?
 必死にひねり出した返答がこれだった。
「私、免許持ってないですよ……?」
「いやいや、後ろに座るだけやし。まぁ大学の敷地内やし、少しぐらいなら構へんやろ」
 おかしなことを口走った気がするけれど、特に何の笑いも起こらず普通に訂正されただけだった。どうやら本気で誘ってくれたようだと遅まきながら気がつく。
「えっと……。本当ですか?」
「何が?」
「乗せてくれるって……。その、私、本当だと思ってなくて」
「まー無理にとは言わへんけど……」
「の、乗ってもいいんですか」
「うん。そう言うてますやん」
「じゃああの、お願いします」
 明石はくしゃっと破顔した。
「ほなお願いされますわー」
 そう言うと、彼は座席の前寄りに詰めて座り、エンジンをかける。
「さっ、どーぞ」
「わわ……。失礼します」
 本当にいいのだろうか。私は恐る恐るシートに腰掛ける。予想以上にくっつく羽目になり、ぎゃあ、と変な悲鳴を上げそうになった。
 細身の男性だと思っていたけれど、近くで見る背中は随分大きく感じた。男の人の背中だ。
 どこに掴まったらいいのだろうと考えた後、そっと肩に手をかけた。すると彼の肩がきゅっとすぼめられる。
「ちょ、くすぐったい。それじゃ危ないで。ここ」
「!!」
 腰に手をまわすように指示され、体が密着する。肉のついていない薄い背中の感触と、男の人の匂い。私の腕でも容易に抱え込めるくらいの胴回りの細さ。背中に染みる汗。夏の暑さと体温。情報がいっぺんに押し寄せてくる。
 ほな、という言葉と同時にぶるんと音を立てて、原付はゆるやかに発進した。
「わあああっあああああ……!! こ、こわ、怖い怖い!!」
 爽快、なんてもんじゃなかった。明石の背中越しに見える景色は予想以上の速さで動いていく。風を切って、ばたばたと衣服をはためかせながら原付は走る。私は必死にしがみつくしかない。原付がこんなに怖い乗り物だとは思わなかった。
 私の悲鳴を聞いたのか、明石がややスピードを落とす。やがて目指す6号館の側に到着すると、原付は緩やかに停止した。
「大丈夫やった……?」
 ヘルメットを取った明石が、困った顔をして前髪を触りこちらを見ている。私はふらふらになりながら原付から降りると、荒い呼吸を吐いた。
「……だ、だいじょう……ぶ」
「そうなん……?」
 明石が遠慮がちに覗き込もうとしてきて、その動きがはたと止まった。
「……あっちゃあ」とかすかなつぶやきを耳にして、私は明石の視線の先を追う。振り返ると、そこにはニヤニヤ笑う獅子王と陸奥守がいた。
 人懐こい顔の青年、陸奥守が強引に明石と肩を組んでバッシバッシと叩く。
「おんしも隅に置けんのう!」
「ちょ、痛った。何しますのん」
「なー。明石もなかなかやるよなー」
「何がやねん」
「いつからそういう関係になったんだ?」
 明石は二人から質問攻めにあっていた。さっきまでの柔らかい雰囲気の彼はどこへやら、いかにも面倒くさそうに受け流している。
 私はといえば、その光景をあわあわしながら見ているだけだった。どうしよう、誤解をとかなければ。でも、正直ちょっと怖い。
「ちゃうねん……。えっらいお困りのようやったんで乗せただけで、そないな関係も何も……何やねんその顔」
「えいのう。青春じゃのう」
「話聞いてへんし」
 陸奥守が訳知り顔でうなずくから、獅子王が耐えきれずに腹を抱えて笑い出す。当の明石からも笑いがこぼれて、彼らの追及はうやむやになった。
 土佐弁の彼は私に向かって言い放った。
「気をつけとおせ。こいつぁ助平やき」
「ちょ……」
 陸奥守の耳慣れない言葉と、明石の慌てぶりに理解が遅れる。
 すけべ。
 ……って、なんでそんなこと言うのだろう。一瞬困惑するけれど、その意味に気づいた瞬間、頭の中が爆発した。
 だって私、彼の背中にしがみついて。体をぴったりと密着させて――
「わ、わああああっ!?」
 私は逃げ出した。
「ちょ、ま、誤解やって!」
 明石の焦った声と、男たちの笑い声が聞こえる。
 恥ずかしかった。
 これからどんな顔をして過ごせばいいのだろう。バタバタと教室に逃げ込んで、隅っこの席でうずくまる。

 この時の私は知らなかった。
 明石の原付に乗った女、として注目を集めてしまうことも。
 お付き合いしているという噂が一人歩きしてしまうことも。
 その噂がやがて現実になってしまう時が来るなんて、全然、知らなかったのだ。