「明石くぅーん! こっち来てー!」
「はいはい。元気やなぁおひいさんは」
賑やかな飲み会の席で、ひときわ派手な声が上がった。サークルの女王様……といってもいいくらい、彼女の周りにはいつも誰かがいてちやほやしていた。……と、そんな風に見えてしまう自分の心の醜さが嫌になる。
そんな彼女に呼ばれて、私の近くで飲んでいた明石国行は席を立つ。ああ、行ってしまう。
お座敷の隣の長机にはサークルで賑やかな人達が集まっていて、がやがやと騒がしい中からお酒の席にありがちな猥雑な話が聞こえてくる。その中でまるで御用聞きのように彼女のそばに佇み耳を澄ませる明石を発見してしまい、私は意図的に目をそらした。ちくりと黒い感情が胸を刺すが、私は首を振ってそれを打ち消した。
せっかくの飲み会、と気を取り直して周りの人達の話に入る。箸袋でちまちまと何かを作る選手権が開催されていて地味に盛り上がっていた。サークルの中でも比較的地味なメンツで構成されているグループだけど、気心知れた友達もできて居心地が良かったりする。
「あれ? 手裏剣ってどうやるんだっけ?」
「手裏剣は枚数がないと。てか箸袋で出来るか?」
「枚数かー。誰か余ってない? ……ないなぁ」
ふと明石の席にある箸袋に目を留める。どうせもう戻ってこない、と手を伸ばしたところで、上からのんびりした声が降ってきた。
「器用やねぇ」
よっこいしょ、とまるでおっさんのような掛け声とともに明石は隣に座る。人の肩を手すり代わりに使うのはどうかと思うが、何気ない動作にドキッとしてしまう。
おかえりー、と冗談めかして言うと「へぇただいま」とのんびりした声で返ってくる。
「見て見て、足の生えた鶴」
「なんですのんそれ」
彼は気が抜けたように笑う。おどけたポーズが作れる足つきの鶴。普通の鶴にちょっと切り込みを入れるだけで作れて実は簡単なのだ。
明石がグラスを持ったのでなんとなくお酌をする。
「いいの? 帰ってきちゃって大丈夫?」
「ええんちゃいます? なんやようけわからん酒の肴にされそうやったんで帰ってきてしまいましたわー」
極力なんでもない風を装って聞くが実は結構心臓ばくばくだったりする。嫉妬しているなんて醜い感情など、悟られたくはなかった。
「そっか。よくわからないけどわかった。まあ飲みましょうか」
そう言いながらも私はカシスオレンジのコップを手に取る。人生で数回目の飲み会で、お酒のことはよくわからないしビールは苦手なので周りに流されて頼んだ。そして何回目かわからないおざなりな乾杯をする。ジュースみたいだけどアルコールのむわっとした味がしてふわふわしてくる。
反対側に座っている友達から話しかけられる。
「あんた達付き合ってるのかと思ってたよ」
私は飲んでいたカシスオレンジを盛大に噴き出しそうになった。
「そんな馬鹿な……」
「ええでっしゃろ? 自分ら、こう見えて盃を酌み交わした仲ですねん」
「ああうん、今ここで乾杯したもんね……」
一方の明石は顔色ひとつ変えず追及をかわし、ビールを口にしている。そこへ他の女の子がさらに突っ込んできた。
「じゃあ好きな女性のタイプとかないの?」
「せやなぁ。……強いて言うなら、いつもニコニコしてはる癒やし系の子がよろしいですなぁ」
一瞬ドキッとしたが、こんなの何も言ってないに等しい。誰も傷つけないうまい言い方だ、と思っていたら、彼は最後に爆弾を落としていった。
「まあ自分働く気あらへんし、ええ暮らしさせてくれるお人がおりましたらなぁ」
「えっ明石ってそういう……ないわー」
「冗談に決まってますやん……そない怖い顔せんでも」
ヒモ宣言に友人はドン引きしていて、私は苦笑するしかない。煙に巻いてきたなぁと感じたが、せっかくなので乗っかっておく。
「埋蔵金とか掘り当てればいい暮らしできるかもしれませんねぇ」
「大阪城の地下なんぞ掘ってみたら出てくるかもしれまへんなぁ」
「それ掘り当てるほうが大変じゃないの?」
「なんや働くより余計面倒な気がしてきましたわ……世の中ままならんなぁ」
話題はどうやって一山当てるか? という実のない話にぐだぐだと移行していく。
友人の切り込みに一時はぎょっとしたが、話題がそれて胸をなでおろした。なぜなら、後ろから刺さる鋭い視線の存在に気づいているからだ。
私と明石の出会いは四月のサークル勧誘まで遡る。
「はぁーえろう疲れましたわ……」
人気のない校舎の影のブースで休憩していると、ぐったりした様相の優男が現れた。その気持ちはわかる。私もサークル勧誘の攻勢に遭い、ここまで逃げてきたのだ。
そして私の前のテーブルにはご自由にどうぞ、と置かれたペットボトルのお茶。私一人で飲んでいるのも気が引ける。
その人に声を掛けるのには少し勇気がいった。柳腰、と男の人に使っていいかわからないけど、そんな言葉が似合う美しい人だったからだ。
「あの〜よかったら、お茶でもどうぞ」
私の声掛けに彼は警戒していたが、とりあえずはお茶を受け取ってもらえた。
「自由に飲んでもいいらしいですよ。部費から出てるから大丈夫なんですって」
「はぁ。部費。……ここは何をやってるところなんですの」
「なんか、お祭りを研究する? とかいって、お祭りを見に行ったり飲んだりだべったりするみたい」
私の要領を得ない説明に彼は気のない風だけど頷いてくれた。長い前髪と赤い髪留めのピンに目が行く。首元にはごつい三本のチョーカー。さすが大学生、おしゃれだなぁ。やたら胸元が開いたシャツが気になってしまうけれど、意図的に見ないようにする。
私もお茶を一口飲んだ。遠くからはサークル勧誘の賑やかな声が聞こえてくる。
「勧誘、疲れますよねぇ」
「せやなぁ。大学入って、こんなイベントがあるとは思ってませんでしたわ」
「ね〜」
あはは、と力なく笑う。この柳腰のお兄さんの柔らかい関西弁に、なんかとても癒やされていた。
「……勧誘せんの?」
「え? 私は別に……」
休憩しているだけなのでなんの義理もない。お茶を勝手に勧めただけだった。
「はぁー。お茶をたてに勧誘されるんやと警戒して損しましたわ」
「そんな手があるんですねぇ」
かくっと彼が椅子から落ちそうになった。さすが関西人、と感心していると「あんさん、抜けてるってよう言われません?」ときた。失礼な。
「そんな事ないと思うんですけど……」
「まぁこのまま逃げ回っててもあちこちの勧誘に捕まるだけやろしなぁ……わかりました。入らしてもらいます」
「え? 入るの?」
私は驚いた。自分で言っといてなんだけど、こんなやる気のない説明で入るとは思わなかったのだ。
「じゃあ入部届……えーと、詳しくは部員の人が来るので、その人に聞いてください」
そう言うと、彼はますますわけのわからない顔をした。
「あんさん部員ちゃいますの?」
「私は休憩してただけで……そしたら『入らなくてもいいから適当に座ってて』って。無理に勧誘して来なかったから悪いところじゃないんじゃないかな」
「あんさん……。わかりました一緒に入りましょ。連帯責任や」
「ええ?」
こうして私は謎の関西人とともに、謎のサークル「お祭り研究会」に入る事になってしまったのだ。
この時の出会いが明石の鉄板ネタとして定着するとは知る由もない。
「あんな無害な顔してはるから、騙されてしまいましたわ〜」
と、ほうぼうで面白おかしく披露される羽目になるのだった。
明石とは学部が違うので接点はサークルでしかない。たまに学内ですれ違って挨拶するぐらいだ。
面倒臭そうにしていたからいつサークルに来なくなっても不思議じゃないと思っていたけど、意外にも彼はちょくちょく部室に顔を出した。私もゆるいサークルの空気に馴染んで、なんとなくここに居ついた。
明石が居眠りしているところに出くわしてしまった事もある。講義終わりに部室に立ち寄ると、彼は眼鏡を外して部室の机にうつ伏せになっていた。美しい人は寝顔も美しいのだなぁ、とぼんやり考える。
ふと彼はむっくりと上体を起こし、大きく伸びをした。
「ふぁ……。今何時?」
「四時ですねぇ。午後の」
彼は慌てた手付きで眼鏡を探してかける。そして無言で立ち上がったが、緩慢な動きで座り直した。
「講義一つ飛ばしてもうたけど、今更慌ててもどうにもならんわ」
「あはは」
こう言っては失礼かもしれないが、この風体の人が講義には真面目に通っているようで意外に思った。
「講義なんて眠ぅてしゃーないんやけど、そんなことも言ってられませんわなぁ」
「でも行くも行かないも自由ですもんね。大学行かずに世界一周旅行とかしてる人もいるみたいですし」
「なんやそれもっと面倒やん……自分ようしまへんわ」
話してて思うけど、明石は面倒ごとが嫌いのようだ。休日は部屋に転がっていたら一日が過ぎていた、というエピソードには笑ってしまった。
このゆるい関西人とは、入部のいきさつもありなんとなく話をするようになった。出身を聞くと「自分は三条大橋のたもとで生まれたんですー」とよくわからないことを言っていたが冗談なのだろうか。
「京都といえば祇園祭ですよねー。私は行ったことないですけど」
と、一応サークルっぽい話もしてみる。
「あれなぁ。人が多くて暑ぅてかなわんわ。歳の離れた弟が祭り祭りうるさくて毎年連れ出されるんやけどな」
「へえ。見てみたいなあ」
どうやら弟がいるようだ。面倒見がよさそうに見えないので意外だった。
「見てみたい?」
「地元のお祭りしか知らないので、ああいう大きい祭りは趣が違いそうですよね」
「なんや祭りの話かいな……」
「あ、弟さん? も興味がないことはないですけど」
そう言うと明石の眼鏡がキラリと光ったような気がした。
「あんさん弟のことが気になるんかしゃーないなートクベツやで?」
などと言いながらスマホを取り出し操作する。そこには活発そうな男の子と中性的な雰囲気の子が写っていた。思わず写真の子と明石の顔を見比べてしまう。
「ええと、どっちが弟さん?」
「二人共。こっちのいかにもな悪ガキが国俊。こっちの一見癒やし系やけど悪ガキが蛍丸。祭り祭りうるさいのは国俊のほうやな」
兄弟とは言うが、あまり似ているように思えない。名前の傾向も国行と国俊はともかく、蛍丸、って全然違うのも引っかかる。……けれど、私は言いたいことを飲み込む。他人の家庭の事情を詮索してもいいことはない。かわりにこんなことを言った。
「明石くんは弟さんが大好きなんだね」
「はぁ、そないなわけあらへんやろ。毎度毎度あちこち連れてけーうるさくてかなわんわ」
「そっか。ごめん」
弟さんの話になるととたんに口数が増えたから好きなのかと思ったけど、即座に否定された。余計なことを言ってしまったかもしれない。
「あんさんの家族はどんななん」
「うち? うちは普通だよ」
と、そこでどやどやと先輩達が部屋に入ってきて、会話が中断する。
そこからサークルらしく祭りの話になり「明石くんは毎年祇園祭に行ってるみたいですよ」と先輩に水を向けると「お、じゃあ今年は京都に遠征するか?」と返ってきた。今年は京都に行けるかもしれない。楽しみだ。
明石とはこんな風になんとなく世間話をしながら仲良くなっていった。いつの間にか隣にいたりして、サークルの中でも仲がいいんじゃないか、という自負はあった。
だが、彼を追いかけるように入部してきた人達によってサークルの様相は一変した。
特にあの「おひいさん」は積極的に明石を呼びつけては親しげに会話を交わしている。彼も早々にこんなあだ名までつけて、満更でもないのだろう。明石がどんな人と仲良くしようが文句をつけようがないのだけれど、私はなぜかショックを受けた。
私もせっかく同じサークルに入ったのだし、と当たり障りのない会話を試みたが、どうにもつんけんした態度を取られてしまいあえなく撤退した。何か嫌われるようなことをしてしまったのだろうか。
彼女が入部してから、祭りにかこつけて飲みたい人が増えた。それはそれで楽しいのだけれど、そのエネルギーについていけないことも増えてきた。
「少ぉし面倒ごとがありましてな、はぁーえろう疲れましたわ」
ある時そうこぼした明石の言葉が頭にこびりついている。面倒だと思われてしまったら、彼はきっとここに来なくなってしまう。なるべく面倒でない当たり障りない会話をして、私は醜い感情を隠す。私は彼を追いかける事も呼びつける事もない。近くに来たら会話はするけれど、それだけだ。
いつか、隣に来てくれなくなったら? 私はみっともなく彼を追いかけるのだろうか。躊躇なく彼を呼びつけるあの子が羨ましい。妬ましい。私はこんなに醜く嫉妬している。
ちょい失礼、と明石がトイレに立った。
なかなか戻ってこないなあ、と無意識に探してしまう。ぐるりと座敷を眺め、あの女の子も席にいない事に気づき、悪い方に思考が傾いていく。
「どうしよう……つらいかも」
私はぽろりとこぼした。誰にも言うつもりはなかったけど、お酒のせいで弱っていたのかもしれない。友達はなんの話かぴんときたようですぐに乗ってきた。
「だから付き合ってしまえとあれほど言ってるのにぃ」
好きなんでしょ、と問われ、今度は素直にうなずくことができた。そうだ。いつの間にか好きになっていたのだ。
「でもさ……たぶん私は気楽な友達だと思う。明石くんが好きなのはあの人でしょ」
「あー。あいつかぁ。『おひいさん』とか言ってんもんな」
あまり快い話題でもないので自然と小声になる。おひめさま、なんてあだ名なんかつけて特別扱いしているのは一目瞭然だった。
もし彼らがお付き合いを始めてしまったら。明石があの子の隣に立つ光景を想像してしまい、ぐすん、と鼻が鳴る。
「でも私、二人が付き合い始めたら見ていられないよ……。やだー。そんなのやだよう……」
私は友達にしがみついた。そしてそのまま思いの丈を語り続けた。二人がお付き合いしたらサークルにいられないかも。もしサークル辞める事になっても友達でいてね、云々。
だから隣に誰が戻ってきたのか、気づかなかった。
「……何があったか知りまへんけど、飲みすぎなんちゃいます?」
「そこのメガネ。カノジョの悩みちゃんと聞いてんのかー!」
「はー。何や急に……」
友達からのうざ絡みに、メガネ呼ばわりされた明石がむっとして答える。
気分はどん底だった。嫌な妄想が頭にまとわりついて離れなかった。しばらく下を向いてうずくまっていると、明石が私の髪をさら、と撫でた。
「どないしたん」
私はみっともない顔をしているに違いなかった。
「明石くん。今までありがとう……」
「はあ?」
「サークルで色々お話できて、本当に楽しかった」
「ちょい待ち。サークル辞めるん?」
「辞めなきゃいけなくなったら、生きていけないよぉー……! うわーん」
「何なん……? ちょお、水でも飲み」
明石も酔っ払いの戯言と気づいたのか、段々対応がおざなりになっていった。水をもらい口にする。だがテンションの降下は止まらない。
「サークル辞めることになってもまたお話してね。もし好きな子ができたら教えてね。明石くんが結婚することになったら式には呼んでね。あ、待ってやっぱ呼ばないで」
「……なんですのん。それ」
明石の顔から表情が消える。
「告白もせんうちから失恋気分なん。よう言わんわ」
がつんと殴られた気がした。普段のんびりした人のいざという一言は容赦なく心を抉っていく。
「そう、ですね。本当にそう……」
やばい。本当に泣きそうだ。
大丈夫? と隣の友達から声を掛けられて、私は少し状況を思い出す。ここはサークルの飲み会。お酒の席。楽しい雰囲気が、台無し。
だいじょうぶ、と言おうとして突然腕を引かれた。無理やり立たされるはめになり、周囲の視線を浴びる。
「すいまっせん。ちぃと飲みすぎてしまったみたいですわ。この子送って帰りますー」
周囲がどよめいて、出かかっていた涙が引っ込んだ。
「いやいや、私はまだ全然……!」
「酔っ払いほどそう言うんですわーしゃーないなー」
そう言いながら明石は私を無理やり引っ張っていく。飲みすぎどころか、私は全然飲んでいないしそんなに酔っ払っているつもりもない。
ざわざわと「おいおいお持ち帰りかー?」「うまくやったなアイツ」などの声が聞こえてくるが、そんな、ないない! お持ち帰りだなんて絶対ない! 私の周りからは概ね好意的で下世話な生温かい声援が寄せられるが、一部女子からの視線が痛い。特に隣の座敷なんて絶対に見られない。抵抗むなしく、腕を引かれてずるずると引っ張られていく。
「あ、これ会費ですー。細かいお金は後日な、ほな」
通りがかりに明石は幹事に声を掛け、さっとお金を渡して自分達を指差し、指を二本立てた。しれっと二人分払ってくれたらしい。もはや後戻りはできず「さ、行きましょか」と押し切られるように店から出た。
外に出ると早速スマホが着信を知らせる。そこには「全部ぶちまけてこい! あ、結果は後で聞かせてね」とありがたい友人からの文面が過剰なハートマークとともに踊っていた。やばい。こんなに堂々と中抜けしたら、次の日にはいろんな人から根掘り葉掘り聞かれてしまうじゃないか。
当の本人は細身の体を震わせて「さっぶぅ……」と縮こまっていた。昼間はともかく、日が沈んでから薄手の羽織りとシャツでは少しつらいだろう。
しかし何を話せばいいのだろう。いろんな話題が頭に浮かんでは口にできず、妙な沈黙が場を支配する。
明石が手を差し出してきた。ふと会費を払っていないことに思い至り、財布を漁る。
「……あ、お金」
「ええって。貸しにしとき。……ええから手ぇ出し」
「手……?」
わけもわからず手を彼の手のひらに乗せると、彼はふはっと破顔した。
「『お手』かいな。まぁ今日のところはええでっしゃろ」
と、その上から手のひらで包まれる。変な悲鳴をあげそうになるがすんでのところで飲み込んだ。
変な形で手がつながったまま、とりあえず行きましょか、と駅に向かって歩き出す。
「やばい……。皆から何を言われるか……!」
「おーおー。明日から質問攻めやなー大変やなー」
「なんで他人事なの……!」
と、例の彼女が頭をよぎり、私の気分はしゅるしゅるとしぼんでいった。明石には『おひいさん』がいるのだから他人事には違いないのだ。
「……帰るね」
「なんで? 飲み直しましょ」
離してもらいたい、と手を引くがしっかりと手が繋がれたままだった。何を考えているのかわからない。困り果てて彼を見やるが、離してくれない。
私は立ち止まる。とうとう、今まで触れずにいたことを口にした。
「だって明石くんのお気に入りは『おひいさん』なんでしょ?」
ずっと隠していた醜い感情が露出しないように、極めて平坦に。普通の声を出したつもりだったけど、少し震えた。寒さのせい、ということにしてもらえないだろうか。
明石は苦い顔をした。
「……それなぁ。ちょっと言い訳させてな。少し前にあんさんの物がなくなる事件あったでしょ」
「え? あったね、そんな事……」
突然話が飛んで困惑を隠せない。
どこかに置き忘れたのか、大事にしていたペンやらアクセサリーやら、こまごました物がなくなってしまい困ったことが何度かあった。だが後日出てきたし、事件というほどの事でもない、と思っていた。この話と彼女に何の関係があるのだろうか。
「あの子ぉがあんさんの鞄を触っているところを見てしまってな。『おひいさんはそないな小さな事しませんでっしゃろ』って釘を刺したんよ。いけずのつもりやったけど案外気に入ってしまったらしゅうてな。あの子ぉも気分よく過ごしてあんさんも嫌がらせされんようになったしええかと思ってましたけど、まぁやっぱり上手くいきまへんなぁ。こないなことになるなら止めさしてもらいます」
「え、ええ……そうだったんだ……」
人を疑うのは嫌だったし、自分がどこかに置き忘れたのだと思い、事件そのものを忘れていたくらいだ。そういえばなくした数日後に「これあんさんのでしょ」と出してきたのは明石だったことを思い出す。
「その後もおいたせんように見張らしてもらいましたけど。面倒を避けよう思ったら余計面倒なことになってしまいましたわ。はぁーこないな二重スパイみたいな真似は懲り懲りですぅー」
「はぁ……すごいね……」
気持ちの整理が追いつかない。相槌を打つので精一杯だった。
「あっ、じゃあ……いや、ええと」
今の状況を思い出して急激に体温が上昇する。手を繋いだまま、二人きりで飲み直そうとまで言ってくれた。これはもしかして、口説かれているのではないか?
だが、己を二重スパイとまで言ってのけた、目の前のこの人を信用してもいいのだろうか。疑えば疑うほどわからなくなってくる。
だから、目の前の事実にのみ反応することにした。人を疑うより、人を憎むより、ただ前向きな言葉を口にしたい。
「ありがとう」
「んー?」
「私のなくした物、本当に大事にしてたから見つけてくれてよかった。ありがとう」
「はいはい。おおきに。……あんさんのそういうとこ、好いてますよ」
突然告白されて、言葉に詰まる。正直に言って、物をなくした時に誰かを疑いたくなる気持ちはあった。今だってその彼女に対してわだかまりがないとはいえない。私はそんな綺麗なものではない。
「ほ、本当に?」
「こないなとこで嘘ついてどないしますねん」
「明石くんは私のことを買いかぶってるよ。私はそんな、全然、癒やし系とはほど遠いし……」
「はぁ、そないなことあらしまへんでっしゃろ。いくら心に何かを抱えとったとしても、口に出すんと出さんとでは大違いですやろ。……んーでもあんさんの場合は、もっと口に出しとったほうがええなぁ。さっきみたいになる前に」
「うう……それは本当に申し訳ない」
先程の醜態を思い出し、恥ずかしくてしゃがみこむ。私は何を口走ってしまったのだろうか。
「ええって。好いたお人の面倒ごとぐらい多少はなぁ」
結婚がどうこう言われたのはさすがに堪えましたけどな。と言われて余計に身が縮む。穴があったら入りたい。
「ほら、立ちぃ」
しゃがみこんだ私を引っ張りあげてくれた。恥ずかしくて顔がまともに見られない。
明石は困ったように前髪をいじる。
「……さすがにすぐにお返事はもらえへんかなぁ」
そう言われて告白の返事をしていないことに気づく。いろんなことがいっぺんに押し寄せてきていて混乱していたが、ここを逃してはいけないことはさすがに理解した。慎重に言葉を探す。
「ありがとう。嬉しい。……えっと」
「うん?」
「あの私、サークルは辞めたくなくて」
「うん。辞めんでええでしょ」
「……その。揉め事になっちゃうと、どうしたらいいか……」
彼からの好意は純粋に嬉しい。だが、突然「おひいさん」の立場を引きずり降ろされたあの人が黙っていないだろう、ということが容易に想像できた。それを無視できるほどの度量は正直、ない。ちくちくと嫌味を言われたことが蘇る。
引き上げてくれた手が離れたと思ったら、肩を掴まれた。そのまま引き寄せられ、真剣な瞳と目が合う。
「あんさんの気持ちはようわかりました。まずお付き合いするって皆に言いましょ。自分が弾除けになるからちゃあんと傍におってください。……それでもごちゃごちゃ言うてくる奴がおったら小突き回したるわ」
真剣な話をしているはずなのに、その言い草に笑ってしまった。
「自分とお付き合いしてくれます?」
「……はい。よろしくお願いします」
そのまま顔がゆっくりと近づいてくる。温かいものが唇に触れたかと思うと、ぎゅう、と抱きしめられて私はもがいた。道行く人がじろじろとこちらを見ていて気が気ではない。
「明石くん! ここ道端……!」
「……せやったわ。こんな往来で長話するのもアレやし、行きましょか」
肩を抱かれたまま歩きはじめる。ただし今度は駅へ続く通りではなく、細い路地へ入っていく。
「……あの、どちらへ?」
「どこって『お持ち帰り』ですやん?」
「……え?」
お酒の残った頭でお持ち帰りの意味を考える。
確かに告白の返事はした。したが、いきなりこんな展開になるなんて聞いてない。こんなに強引な人だったっけ。どうしよう。どうしたらいい? 震えが止まらない。
「冗談だよね?」
「さあ、どうでっしゃろなぁ」
その端正な顔が意地悪そうににやっと笑った。
「一晩かけて、ちゃあんと口説かしてもらいますんで覚悟しい」
私は声にならない悲鳴をあげるしかなかった。
この一晩で何があったかなんて、誰にも言えない。