居酒屋のお座敷席。目の前で繰り広げられるのは猥雑な話。誰それがお持ち帰りされただの、今までの恋愛遍歴だの、こいつは女が途切れたことがないだの、下世話な猥談で盛り上がっていた。
私は話に入れず、曖昧な笑みを浮かべながらうなずくだけ。もしかしたら顔が引きつってすらいたかもしれない。どうしてこんな会に来てしまったのだろう。
一息つくためにトイレに立つ。のろのろと用をすませ、手洗い場で深く深くため息をつく。そして帰ってきたら私の席が埋まっていた。今しがた座っていた場所には合コン相手のチャラいサラリーマンが陣取って、同僚と熱心に話し込んでいる。本格的に帰りたい。
しかたなく、こそこそと自分のコップを掠め取って隅の席に移る。そこはほとんど料理が手つかずで、刺身も綺麗に盛り付けられたままだった。
よし、食べよう。そして食べ物のぶんだけ元をとって帰ろう。
「飲んでます〜?」
箸をつけようとしたところに後ろから声を掛けられて、私はぎくりと背筋をこわばらせた。振り向くと、眼鏡をかけて長い前髪を無造作に垂らしたイケメンがお手洗いから戻ってきたところのようで、空いていた隣の席に座ってきた。
「あっ、ええと」
確か明石さんという名前だった気がする。今回の合コンのメンバーの中でも、緩い関西弁をしゃべるこのイケメンは女性陣の目を惹いていた。
どーも、と緩い挨拶につられて軽く会釈をする。
「すみません……先程はありがとうございました」
「先程……?」
彼はキョトンとしていたが、やがて何かに思い至ったらしい。
「ああ……。あんなん気にせんでええですよ」
彼はひらひらと手を振ってビールを一口あおった。
「いえ、本当に助かりました」
私は手を合わせて感謝の意を表明する。
先程はテンションの高い男性陣から突然変な質問コーナーを設けられて困っていたのだ。初めてのキス、今までお付き合いした人の人数、そんなような話題を振られ私はパニックに陥った。他の人は嘘か本当か、もっともらしいシチュエーションを打ち明けて盛り上がる中、私だけがまごまごして場の空気は急速に冷えていく。ノリが悪いよ、と冷たい視線が突き刺さる。
「ええと……あの、そういったことは……」
「秘密やんなぁ?」
そんな時に助け船を出してくれたのが彼だった。藁をもすがる思いで必死にうなずく。
微妙な空気を盛り返すべく女性陣からも質問が飛んだ。
「えーじゃあ、明石さんは〜?」
「せやなぁ。仲良ぉなった人には教えてもええかなぁ」
明石さんの答えに女性陣から黄色い歓声が上がる。なるほどあんな風にかわせばよかったのだ、と思うがもう遅い。かくして私は場からはじき出され、ただうなずくだけの壁の花と成り下がり、そして今に至る。
「……まぁまぁ。飲みまひょか」
コップを渡されて明石さんからお酌を受ける。どうして私はお酌をされているのだろうか。頭にハテナマークを浮かべながら、お返しに自分からもお酌を返し、流れでグラスを合わせる。せっかくなので一口だけビールを口に含んだ。
「すみません、本当に場を盛り下げてしまって……。そもそも私、合コンだって知らなくて、本当に数合わせで誘われただけなんだって来てから知りましたし……」
同僚からどうしてもと頼まれて、何も知らない私はホイホイついてきてしまっただけなのだ。その同僚は目当ての男性がいるのだろうか、場を盛り上げるべく赤裸々なトークを繰り広げている。仕事上の付き合いでしかなかったから、知らない人を見ている気分だった。
何しろ相手方は取引先の有名企業で、それもなかなかのイケメン揃いだった。女性陣が目の色を変えてしまうのもわかる。わかるけれども、私はその場のノリに乗り切れなくて終始固まるしかない。特に事情を知らない私のような者にまで声をかけるなんて、何としてでも人を集めて成立させたかったのだろう。本当に断ればよかったと後悔ばかりが募る。
他に積極的な人もいっぱいいるし、私の話はつまらない。きっとこの人も適当に話を切り上げていってしまうだろう。そう思いながら隣を見ると、思いの外優しい表情で耳を傾けていた。
「いやー奇遇ですなあ。実は自分も数合わせで来ただけなんですわ」
「そうなんですか?」
「そうなんですわ。ホンマにこういう、けったいな場は……」
あ、今のオフレコで頼んます、と口元に人差し指を立てる明石さんを見て私は吹き出してしまった。彼は先程女性陣から囲まれて質問攻めにあっていた。笑顔で応対していたような気がするけれど、実は苦手だったのか。
「ふふっ。……ちょっと安心しました」
わけもわからず連れてこられた合コンというお酒の席で、酒も飲めず、猥雑な話も苦手で。自分だけが取り残されていたようで心細かったのだ。もしかしたらリップサービスなのかもしれないけれど、話を合わせてくれた気遣いが嬉しかった。
「そら良かった」
明石さんも鷹揚にうなずく。
私達はそれから話をした。普段は社畜同然の労働をしていること。たまたま早く帰れると思ったら、わけもわからず同僚に拉致されてきたこと。
明石さんの話術は力が抜けているけれど、人を引き込む魅力がある。心地よい話を聞きながら、なんだか好きだな、と思った。私には手の届く人ではないけれど、女性から人気があるのもよくわかる。
うんうんとうなずきながら話を聞いていたら、向かいの席に同僚が引っ越ししてきた。この人とは別の部署であまり話をしたことがない。バリバリのキャリアウーマンといった風体で、私とはタイプが違う。
「あー! 何、ちょっと二人していい雰囲気出しちゃって」
「せやろ? ラブラブなんですわ」
会話に割って入ってくるも、明石さんは軽く受け流していた。ギョッとするけれど、よく考えなくても円滑に話を受け流すための冗談だと相場は決まっていた。本当に上手だなあ。場慣れしている、といってもいいくらいに。
「そうなんですよ」と話に乗っかっておく。
「え〜いいなー私もラブラブしたい」と彼女は追撃の手を緩めない。そんな彼女にも明石さんは「まぁまぁ、飲みまひょか」とコップにビールをついでいた。
「明石さんは休日は何をしているんですか?」
「ん〜……だいたい布団の中やなぁ」
「え! 布団の中で何してるんですか!?」
「いやいや、何って……。何やと思います?」
話が弾んでいるのを目の当たりにして、胸が苦しくなる。私と話した時は和やかに話せたような気がしていたのだけれど、全然そんなレベルじゃなかった。
そして再び私は壁の花と化した……と思いきや、時折明石さんが話を振ってくれたりしてどうにか相槌程度には参加することができた。そのうちに他の人も会話に混ざってきて、やっぱり大勢が話している場だと聞き役になってしまうのだけれど。それでもさっきよりはだいぶ話に混ざれていたような気がする。
そうこうしているうちにお開きとなり、ようやくこの戦場から解放された。バラバラと帰り支度を始め、幹事に会費を渡してお店を出る。
「あの、ありがとうございました。明石さんがいてくれて本当に助かりました」
軒先で白い息を吐いている明石さんを見つけ、改めてお礼を言った。今日彼がいなかったらどうなっていたことか。一人壁の花となって、惨めな気持ちのまま帰ったに違いなかった。
彼は「そんな大層なことしてへんけど」と謙遜していたけれど、幹事の「二次会に行く人ー!」という招集に反応して、私にこそこそと耳打ちしてきた。
「……せや。ちぃと話を合わせてくれる?」
「え?」
話ってなんだろう? そう思った瞬間、明石さんに手を繋がれていた。
「すんまっせん。自分らはこれで失礼させてもらいますー」
頭の中が真っ白になるが、円滑に帰宅する口実なのだということはどうにか理解した。
「えぇー帰っちゃうの?」と同僚から惜しむ声が聞こえるが、繋がれた手を見て口をつぐんでいた。
「お、お先に失礼します……! 二次会、楽しんできてください」
繋がれた手がじわりと熱を持つ。今晩は眠れそうにない。
しかし円滑に帰れそうではあるが、角は立ったかもしれない。明日出社するのが怖い。
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