螺髪(ぶしさに)
うだるような夏の暑い日であった。
審神者は自室を出て、涼しい場所を探していた。文明の利器はあるが、それに頼るのも風情がない。それに気分転換がしたい。適切な休息は効率をあげるために取り入れるべきで――と、ぐだぐだ考えたけれど、ようするに仕事から逃避するための言い訳だった。近侍に見つかったら、怒られるだろうか。
審神者はそうして玄関横の土間にたどり着いた。ここなら、確かにひんやりしている。上がり框に座り、土間に足の裏をつける。そうしてしばしの涼を取る。
審神者の志は低い。
もともと審神者を志してきたわけじゃなく、適正が見つかったとかで気づいたら押し込められていたのだ。
そんなわけで初期刀は一番干渉してこなそう、という理由で山姥切国広を選んだ。その思惑はある意味では当たっていたが、当初あまりにやる気を見せなかったせいかじっとりした瞳で「俺が写しだからか……」と呪詛のように呟かれた。これは説教よりも効いた。これ以来、業務は適度にこなし、見咎められない範囲でさぼって――いや、息抜きをしているのである。
遠征や出陣に出払ってしまった本丸は、がらんとしている。
蝉の声が遠くからじわじわと聞こえている。
審神者になってからまだ間もなく、たいして刀が揃ってるわけでもない本丸。短刀、脇差を中心にようやく太刀が手に入り始めたところだ。刀の数に不釣り合いな広い本丸は、人気がなくしんと静かだった。人ではなく刀なのだから当然か、と思い直す。そんな刀達に囲まれ、人間は審神者一人。ひとりきり、とぽつりと口に出すと、ぞわっと背中が寒くなる。
妙な想像が頭をよぎったところで、がらがらと土間の入り口が開いた。
「おお、主殿」
背中に籠を背負い、小豆色のジャージを身につけた大男が、にかっと笑みを見せる。
審神者は大男をしばらく見つめ、何かに思い当たったのかようやく言葉をひねり出した。
「……誰かと思った」
あの特徴的な低い声と主殿、という呼び名がなければ誰だかわからなかった。いつもの山伏の装束でなく、あの被り物がなかったからだ。
「被り物は?」
「宝冠のことであるな。あれは少々、畑仕事をするには暑いからなあ」
そう言い、山伏はカカカと笑った。
戦に行く時は暑くないのか。そんな疑問も抱きながら、審神者は彼の頭髪に目を奪われていた。さっぱりとした短い髪。特筆すべきはその色だ。彼の頭髪は鮮やかな青色をしていた。
彼は上がり框に腰を下ろし、畑の収穫物の仕分けを始めた。
「胡瓜と茄子が大量に採れたのでなあ」
審神者は気のないようにふうんと相槌を打つ。料理のことはとんとわからなかったが、得意な連中がどうにかしてくれるだろう。
「そんな胡瓜ばっかりじゃ河童になっちゃうよ」
「カカカ! 違いない」
ついいつもの調子で言葉を放つと、想像より気さくな返事が返ってきて、おや、と思った。
真面目一辺倒の堅物なのかと今まであまり接したことがなかったが、もしかしたらけっこう融通の利く刀なのかもしれない。
山伏は野菜をひとつひとつ選り分け、手ぬぐいで丁寧に磨いていた。別にそんなことしなくても後で水洗いするだろうに、とは思ったが、彼の仕事の丁寧さについ見入っていた。
もうひとつ気になるのが、彼の青い頭髪だった。
彼は視線を下げたまま作業に没頭している。それをいいことに、無遠慮に登頂部を見やる。まるで人のように、その短い頭髪はぐるりと渦を巻いていた。彼らの造形を見ていると、つい刀であることを忘れてしまいそうになる。
その綺麗な青色の髪を眺めているとふつふつと好奇心が湧き上がった。
「そういえば、仏像の螺髪も青色なのだっけ」と考えていたことがつい口に出る。
「カカカ! 主殿は博識であるなぁ」
「山伏の髪はそれと関係あるの?」
「拙僧の刀身には不動明王が彫られておる。関係あるとすれば、それであろうな」
「へえ。それって、人でいうなら刺青みたいなものかな」
などと適当な話題で場をつなぎつつ、審神者は立ち上がり、作業をのぞき込むふりをしてじりじりと近づいた。
これはとても罰当たりな行為なのだ。いけないと思いつつ、心に反してその手は彼に近づいていく。
さらりとした感触がした。やはり思った通り、美しい髪であった。
「主殿、何を――」
言い終わらないうちに、ぷつっ、とかすかな音がした。
山伏の美しい御髪を引き抜いたのだ。
彼はぱっと顔を上げるとさあっと顔色を変える。
――だって奇麗だったから。つい出来心で。彼の髪の毛を手中で弄びながら、様々な言い訳が浮かんでは消えていく。
「主殿、いけませぬぞ」
かっと目を見開いたままじりじりと近づいてくる山伏に、審神者は今しでかしたことの重大さを認識し始めていた。
これは、もしかしたらやってしまったかもしれない。歌仙や燭台切なんかには怒られ慣れているから微塵も怖くないけど、普段怒らない刀の恐ろしさは想像がつかない。
このまま素直に謝るべきか、と思ったが性分というべきか、こういう時ほどふざけてしまうのだ。
審神者は片目をつぶり、おどけてみせた。
「…………奪っちゃった」
「主殿ッ!!」
それが合図となり、審神者は脱兎のごとく駆け出した。
すぐに後ろから大男が追いかけてくる。どたどたと、いかにも太刀というような無遠慮な足音に、なんだなんだとあちこちから刀たちが顔を出す。「祭りかぁ?」と愛染が反応するが、審神者はそれに返事をする余裕がない。やがて廊下の行き止まりにたどり着き、観念して後ろを振り返ると、うっすらと汗をかいた大男がじりじりと近づいて来た。自分がしでかしてしまったこととはいえ、正直怖い。
「ごめんって」
とりあえず謝る事にした。自分でも全く誠意が感じられない言い方だと思う。
「主殿、髪を返してくだされ」
「記念にとっておきたいの。お願い。謝るから見逃して」
ならぬ、と山伏は怒りを堪えた声で宣言した。
「どうしても駄目?」
「ならぬ。付喪神の一部など――ましてや頭髪など。主殿にどのような影響が出るかわかったものではない。最悪、主殿を支配してしまうやもしれぬ」
「……いいよ」
そう言って微笑む様は魔性の女のように見えたに違いない。
ぐうっ、と山伏が息を飲む音が聞こえた。嘲るように審神者は舌を出す。
「だって面白そうだもの」
主殿ッ!! と山伏の咆哮が本丸中に響いた。