粟田口の長兄と一人っ子(いちさに)


 きっかけは些細な事であった。
 粟田口の短刀某が飾ってある皿か何かを割ってしまったということで、一期一振が頭を下げに来たのだ。それが審神者には気に食わなかった。
「皿を割ったのは仕方がない。形ある物はいつかは壊れる。――で、どうして本人が謝りに来ないの」
「弟の不始末を肩代わりするのは、長兄としての責任です」
「何言ってるの? 一期は皿を割ってなんかいないのに? わかんない。全然わかんない」
 審神者はばっさり切って捨てた。しばらく睨み合いが続いた後、一期は冷たい瞳で吐き捨てた。
「兄弟がいないあなたにはわからぬ事でしょうな」
「…………は?」
 審神者は怒りを通り越して呆然とするしかない。とんでもない喧嘩をふっかけられたものだ。
「もういい、下がりなさい」
「いや、しかし――」
「あんたの顔は当分見たくない。しばらく頭を冷やしなさい!」
 そう言って、一期を強引に下がらせた。頭を冷やす必要があるのは自分もだった。


「……ったく、なんだよあいつは!」
 審神者は握りこぶしで机を叩く。近侍の同田貫が胡乱げに見やるが、それだけだ。
「同田貫、聞いてよ。一期ってやつがさ――」
 審神者は同田貫に怒りをぶつける。長兄が弟の肩代わりをしにきたこと。一人っ子だからわからないと罵倒されたこと。それをぐちぐち言っていると、面倒くさそうに「あぁ? そんなことより戦に出してくれよォ」と凄まれた。
「あーあ。いいねあんたはわかりやすくて。それぐらい割り切れればいいのに」
「なんだァ? 喧嘩売ってんのか」
「んーん。思った事を言っただけ。やっぱり喧嘩売ってるように聞こえちゃうのか」
 これでも褒めているつもりなのだが、どうにもうまくいかない。思ったことをすぐ口に出す性質だから、時々こういった摩擦が生じているのは否定できなかった。
「でも私は悪くないし。あんな罵倒、逆ギレもいいとこだろ! あんなのにいちいちかまってられるかっての!」
 少なくとも審神者は正当な主張だと信じていた。謝りたいなら本人が謝るべきで、長兄が肩代わりするなんて理解できない。いくら兄弟といえども別の個体だろうに。
 ではなぜ審神者が未だに怒っているのかというと、やはり一人っ子は兄弟持ちの気持ちなどわからない、と暗に言われた事を引きずっているからだ。今までの自分の人生、わりとやりたいように生きてきたつもりだが、自分の生まれだけはどうにもならない。親と兄弟は選べないのだ。


 廊下からトットットッ、と軽やかな足音が聞こえてきて、執務室の前で止まる。誰何すると、粟田口の短刀、薬研が顔を出した。
「よぉ大将。まーだおかんむりか?」
「うるさいな。苦情はあんたんとこの長兄に言えっての」
 さすが粟田口の情報網は早い、と苦々しく思いながら審神者はぶっきらぼうに返す。粟田口絡みで何か事件が起こると、だいたいそれが一族に伝わっているのだ。中には白山や鬼丸といった無関心な刀剣もいるが、それでも大抵の事は把握しているらしい。
「まぁそう言うな。いち兄はああ見えて気に病んでんだ。大将の事を傷つけた、ってな」
「そんなことないでしょ。ヤツはいつだって粟田口の事しか考えてないよ。断言するね」
 そう、彼はいつだって粟田口の頭領なのだ。粟田口が関わる事となれば、例え相手が審神者であっても意見する。それでぶつかった事は一度や二度ではない。先の大阪城侵攻でも、それは揉めたのだ。兄弟がいるのです、兄弟のために。そう繰り返す一期に、自分の意思はないのかとなじった。それでも彼は兄弟のためと主張した。
 美しき兄弟愛。だが、それにがんじがらめに縛られた彼は果たして幸せなのだろうか。少なくとも自分とはわかりあえる事はないのだろう、そう審神者は結論づけた。
「大将、悪いがご足労頼む。皿を割った当の本人が直接謝りたいそうだ。それに……」
「……どうした?」
「いや、いいから来てくれ」


「主様……! すみません……!」
 薬研に案内され、粟田口部屋までやってきた。べそをかきながら顔を出したのは五虎退だった。
 相手が謝りに来るのではなく、どうして自分が呼ばれたのか。その謎はすぐに解けた。
「五虎退。どうしたの……その怪我!」
「その、虎くんが。お皿を割ってしまってぇ……っ! それで、破片が」
 五虎退と虎の様子はひどい有様だった。怪我の程度はおそらく軽傷だが、派手に血が散っている。
「わかった。今すぐ手入れする」
 慌てて薬研とともに手入れ部屋に連れて行ったものの、胸にはもやもやするものが残った。
「なんで五虎退の怪我の事を報告しなかったんだ、一期一振! それこそ長兄失格じゃないか」
「大将、あんまりいち兄のことを怒ってやるな」
「ハァ。兄弟だからって庇い立てするのね……」
「そうカリカリすんなよ。……いち兄はな、大将の前に出ると平常心じゃいられなくなるんだ」
「そう。――私も嫌われたものだな」
 薬研にたしなめられて、審神者はため息をつく。あんなにやりあっているから予想はしていたものの、内心穏やかではいられない。
「ちょーっと待ってくれよ大将、何か勘違いしちゃいないか? 平常心じゃいられないってのは、つまりその」
「薬研」
 すうっと冷たい声が遮った。振り向くと、渦中の一期一振がそこに立っていた。
「おおっと……こりゃいけねぇ。大将、後は任せた!」
 薬研は持ち前の機動で走り去っていく。後には気まずい雰囲気の審神者と一期が残された。

「……一期。五虎退が怪我をしていた。どうして報告しなかった?」
「は。それは……」
 一期が苦虫を噛み潰したような顔をする。
「報告するまでもないと思ったか? 粟田口の頭領は、弟を大事にするんじゃなかったのか」
「そうではありません」
 そう言うと一期は訥々と語りだした。
「本当は、すぐに主を呼びに来たのです。しかし、そこで言い合いになってしまい……」
「なんだそれは。私が悪いとでも言いたいのか?」
「いえ、そのような事は――」
 確かに喧嘩になった。そして審神者は会話を打ち切って彼を下がらせた。だが、怪我となれば話は別だ。どうして呼び止めなかったのか。なぜ怪我を最初に知らせなかったのか。審神者はむかむかしたが、ここで怒ってはさっきの二の舞だった。審神者は怒りをなんとか押し込める。
「……はぁ。あなたの話をちゃんと聞こうとしなかった私にも責任がある。すまなかった、一期一振」
「主……。私こそ謝罪をせねばなりません。かような暴言は許されることではありますまい」
 そう言って一期は頭を下げた。
 審神者は呆然として彼の頭頂部のつむじを見やる。あの意固地な一期一振が頭を下げたのだ。だからつい、言うつもりのなかった言葉が口をついて出た。
「一期一振。……私はあなたたちが羨ましいよ。私にはどう頑張っても得ることができないものだったから」
 彼が長兄らしい行動をとるたび、それが目についてもやもやとわだかまりが広がっていった。結局それは、嫉妬、なのだろう。彼は自分にないものを持っている。一人っ子だから自由で我が強い、などと揶揄される自分とは違う。長兄としての信を兄弟から勝ち得ている。それが審神者には眩しかった。
 話は終わったとばかりに会釈して帰ろうとするが、袖を引かれた。
「お待ちください」
「へ?」
「――私の事を、長兄と呼んでもいいのですよ」
「…………はあ?」
 見たことのない一期がそこにはいた。
 審神者が知っている一期は、一族のためなら何でもする粟田口の頭領で、逆に言えばそれ以外のことをおもんばかる余裕などない男だった。それがどうだ、今はこちらに手を差し伸べようとしている。彼はどれほどの重荷を抱えようとしているのか。
「な、何々? ……呼ばないよ。ただでさえ兄弟たくさんいるのに、不肖の妹まで増やす気? それに私は一人っ子だもん。一人の方が気楽だよ」
「左様ですか。出過ぎた真似をいたしました」と彼は頭を下げた。
「な、なんだよ、いきなり……」
 審神者は赤くなった。兄弟は不要だと言ったけれど、このように気遣われるのは悪くなかった。


 だから審神者は知らなかった。一期一振が野心を心の内に秘めていたことに。
 やがて彼が審神者の信頼を勝ち取り、腹心として収まるのは、そう遠くない未来の事である。