髪を切った話

 髪を切った。
 肩まで伸びていた髪は襟足が見えるほど短くなり、シャンプーの量も劇的に減った。頭も軽くなって、ご飯の時に垂れてくる髪を気にしなくてよくなった。ただし寝癖を直すのはちょっと大変。これは意外な発見だった。

「わあ! 主さん、どうしちゃったのその髪!?」
 乱が目をまん丸くしている。やはり食いついてくるだろうとは思っていたけれど、オシャレ大好きな短刀はズバッと切り込んできた。
「ちょっとね、気分転換というか。……変かな?」
 はにかみながらそう言うと、乱はぶんぶんと首を振った。
「ううん! 短いのも似合うよ!」
「えへへ、ありがとう」
「でも意外だなー! 主さん、いつもカワイイ格好していたじゃない?」
 乱が言う。「あ、もちろん今もカワイイけど!」と追記することも忘れない。
 やっぱり来たか。慎重に言葉を選んで発言する。
「仕事に本腰を入れようと思って……」
 もちろんいい加減な気持ちで仕事をしていたわけじゃない。けれど、もう余所見をするのは卒業。その決意表明のつもりでもあった。
「それって……」
 乱は何かを察したみたいだけど、私は曖昧に笑ってごまかした。
 いつかは話せるようになるかもしれない。けれど今は触れてほしくない。
 有り体だけど、私は恋を諦めたのだ。


 大多数の刀はいつもと変わらず接してくれた。何も言わず接してくれる、ということが今の私にはありがたかった。
 加州のようなお洒落に余念のない刀は大騒ぎしたけれど、最終的には「まぁ……それも似合ってる」と認めてくれた。
 次郎や日本号、大般若といった酒飲みの刀からは飲もうと誘われた。次郎には豪快に肩を叩かれてちょっと痛かった。
 歌仙、蜂須賀は一瞬驚いたけど「まるで武人になったようだね」と目を細めた。てっきり嘆かれると思っていたから意外だった、とこぼすと「僕の元主を誰だと思っているんだい。珠――ガラシャはしとやかな女性であったけれど、その一方で勇ましくもあったよ」と歌仙が答えた。
 山姥切は用のついでに「あんたはあんただ」と言って去っていった。なんのことだろうと首を傾げたけれど、私の髪のことを指しているのだと気づいたのはだいぶ後になってのことだった。
 あの人とは廊下ですれ違った時に一瞬視線が合った。目を丸くしていたけれど何も言って来ることはなかった。しょせんその程度の関係だったのだ。それでも、一矢報いてやったと思えば、少しは胸のつかえが降りた気がした。


 *


 それは暑い夏の日のことだった。
 私は短刀とかくれんぼをしていた。主さんが鬼ですよ! と笑いかけられ、気軽な気持ちで応じてしまったものの、私は短刀の隠蔽能力をナメていた。ここまで本気で隠れるとは思っていなかったのだ。
 部屋を開けても、押し入れを開けても、どこにもいない。縁側の下すら覗いてみたけれど、影も形もなかった。時折通りかかる大きな刀達には「かくれんぼか? 頑張れよ」と笑いながら話しかけられた。私はその度に「探しているんですけどねぇ……見つからないんですよ」と冗談交じりで答えた。実際には笑いごとではなかったけれど。
 何しろ一人も捕まえていないのだ。挫けそうになりながら、私は納戸の戸を引いた。
 薄暗い納戸の中、目を走らせる。もぞ、という影が動くのが見えた。
「見ぃつけ……た……?」
 と勇んで大声を出してみたものの、様子がおかしいことに気づく。
 それは短刀ではなく、太刀であった。刀剣男士明石国行が横になっていたのだ。どうやら納戸の中で眠りこけていたらしい。
「……ふわぁ。見つかってしまいましたわ」
 彼はあくびをし、上体を起こしながら眼鏡を探り当てておもむろに掛けた。私が大声を出したから起こしてしまったようだ。
「ご、ごめんなさい……! あの私、短刀達とかくれんぼをしていて、それで……」
「はあ、かくれんぼですかぁ」
 彼は別段気にした風もなく、ゆるりと伸びをした。
 冷静に考えればどうして納戸で寝ていたのか? と切り返すこともできただろう。だがまさかこんな状況に遭遇するとは思わなかったので慌ててしまった。
「本当にごめんなさい。起こしてしまいましたよね……?」
「……いやいや。自分もかくれんぼしてたとこなんですわ」
「え?」
 そんなはずはない。少なくとも最初の人数には入っていなかった。ではいったい何のことだろう?
 動揺する私の手を彼の手が捕らえ、まるでかくれんぼの続きのように彼は口ずさんだ。
「捕まえた」
 掴まれた手の感触がいやにはっきりと印象に残った。


 それまで明石とはあまり話をしたことがなかった。命令は無難にこなすものの、受け答えはふわっとしていて何を考えているかわからない。加えて普段の態度は怠惰。見た目もシャツを大胆に開けて、だらしない姿をみせている。正直好ましいタイプとはいえなかった。
 それがまさか、急に手を掴まれるとは思わなかったのだ。それからというもの、私は彼を無意識に視線で追っていた。愛染や蛍丸に世話を焼かれ、そうかと思えば面倒をみている。不思議な関係だと思った。
 時々、縁側や日の当たる場所でぼうっと転がっているのが目についた。どうもお気に入りの場所が二、三あるようで、無意識に定位置を目で追う癖がついてしまった。
 あれから例の納戸には行っていないけれど、もしかしたらお気に入りの場所だったのかもしれない。知らなかったとはいえ、悪いことをしたと思う。


 それからしばらく経ったある日のこと。
 茶の間でテレビがつけっぱなしになっていた。部屋の中を覗き込むと、明石が座卓の向こう側で横になり、すやすやと寝息を立てていた。
 ひとまずテレビを消し、明石を眺める。見せつけるように大胆に開いた胸元が視界に入り、ごくりと喉が鳴ってしまう。無造作に伸びた前髪、意外に長いまつ毛。かすかに開いた口がやけに色っぽい。
 テレビを見ている途中で寝落ちたのだろう、眼鏡もかけたままだ。
 勝手に外したらさすがにおせっかいだろうか。手を伸ばしかけ、ぴたりと止める。やはり勝手に触るのはよくない。そう思い手を引っ込めると、男が口を開いた。
「そないに見つめられたら穴があいてしまいますわ」
 私は思わずのけぞった。何しろ寝ていると思ったのだ。
「ご、ごめんなさい!」
「はははっ。触りたかったら触ってもよかったんやけどな。なんや惜しいことしたわ」
「違うんです……! 眼鏡を外そうとして」
「眼鏡? 外しても面白いもんでもないですけど」
「いや、そうじゃなくて……」
 余計なことをするんじゃなかった。後悔しつつ、寝ている時は邪魔だろうから眼鏡を外そうとしたのだと説明した。
 彼はむくりと起き上がり、私の言い訳をたいして面白くもなさそうに聞いていたが、言い終わったところでニヤリと笑った。
「てっきり口吸いでもされるのかと。なぁんや残念」
「く、口吸いって!」
 聞いたことがある。そう、昔の言葉でいうキスのことだと思い至った瞬間、顔が熱くなった。
「あっはっは、主はんおもろいなぁ。タコみたいやで」
「〜〜面白くないっ……!」
 私は顔を隠してぶんぶんと首を振った。とても恥ずかしかった。


 明石は私をからかってもいい対象だと認定したようだった。
 ――主はんも一緒に添い寝します?
 ――なんなら口吸いしてみます?
 含み笑いでそのような言葉をかけられて動揺する。私はその度にドキドキして、一喜一憂して、そして彼の笑い声を背に退散するのだ。
 私は彼の前に立つと勝手に赤面してしまうようになった。
 だからきっと、これを恋だと勘違いしてしまったのだ。遊ばれているだけだったのに。
 彼は私のことを好きなのだろうか。そうではないのだろうか。悩んでいたところに昨日の一言である。
 ――冗談ですやん?
 彼はいつもの笑顔でそう言った。
 がつんと頭を殴られたようだった。
 それからのことはよく覚えていない。
 ――そうか、冗談かあ。
 何事もなく答えたつもりだったけど、うまくできていただろうか。
 けれど本当は深く傷ついたのだ。私はふらふらと自室に戻ると、布団の中で一人静かに泣いた。
 私はからかわれていただけだった。そんなことにも気づかずに刀剣男士を統べる立場になど、よくなれていたものだと思う。色恋につられて審神者の本分をおろそかにしようとしていたのだ。そんな自分が恥ずかしかった。
 そしてすっぱりこの思いを断ち切ろうと、髪を短く切りそろえたのだ。
 当てつける気持ちもなかったといえば嘘になる。短くなった私の髪を見て、少しぐらいは動揺してくれれば。今朝の彼の様子から、目論見は成功したと言ってよかった。

 私は審神者だ。
 色恋にうつつを抜かすことなどせず、戦に意識を集中しなければ。



 *


「……あの」
 後頭部に手が差し込まれ、私の髪がさらさらと弄ばれている。まるで短くなったことを惜しむように。

 宵の内。へとへとになりながら今日の任務も終え、近侍を解放したところだった。その刀剣はこちらの様子を伺うこともせず、するりと執務室に入ってきた。そして隣に腰を降ろしたかと思うと無遠慮に視線を投げかけた。
 私はその方向を向くことができない。
 じりじりと焼け焦げるような視線を受けながら「何か御用ですか」と、震える声で絞り出すのがやっとだった。
 彼は無言で手を伸ばし、短くなった髪を一房つまんで渋い顔をした。
 予想外の行動に、ぴくりと体がこわばった。おかげで抵抗するのが遅れた。結果として私は彼の手をそのまま受け入れ、されるがままになっていた。
「……昨日」
 語頭にアクセントが乗る関西弁に、心臓が飛び跳ねそうになる。
「あー……」
 しばらく待っていると、彼は言いあぐねて、空いている方の手で頭をがしがしと掻いた。そしてまた沈黙。その間彼の手は名残惜しそうに私の髪を弄び、やがて、つつ、と首筋を撫でた。
「……あの、明石さん」
 注意しなければならない。そのような触れ方は恋人同士のような仲がやるものだと。冗談半分で触れていい場所ではない。
 髪を短く切り揃えてむき出しになった私の耳たぶを、彼の指がつまんだ。驚くほど繊細なタッチで、優しく愛おしそうに撫でてくる。
「そこは、むやみに触っていい場所ではないです……」
「あきませんか」
 いいわけないじゃないか。
 けれど体は拒否できずに、静かにその手を受け入れている。じわじわと顔が熱くなっていく。
 気持ちが通じ合っていないのに体が反応してしまう。恋人でもないのに、という思いがない混ぜになって涙があふれてきた。諦めたというのに、私の心は未だに捕われたままだ。
「すんまへん」
 泣き顔を見られたくなくて顔を隠すと、明石が手を離した。まるで捨てられた犬のように、遠慮がちに肩口に額を擦り寄せてくる。そして再び深いため息が聞こえた。
「止めましょう、こういうのは。冗談半分でやっていいことじゃない……」
 自分の言葉に自分で傷つく。
 優しい言葉も、甘い誘惑も、全部冗談だったのだ。そのひとつひとつを思い出して、また自分で自分を傷つけている。
 髪を切り落とし、吹っ切れたつもりでいるけれど、今もなおその傷は癒えていないのだ。
「……違うんです」
 ちゃうんです。訂正の言葉すらも彼にかかると、可愛らしい言葉に変貌する。
「その。主はんが可愛らしいお顔を見せてくれはるから、つい調子に乗ってしもたんやろうなあ……」
 私の肩口に顔を埋めながら、何度目かのため息をつく。
 ――それも冗談?
 つい口から出そうになり、涙を手の甲で拭いながら沈黙する。明石はしおらしくしていて冗談のようには思えなかったけれど、人の言葉を信じられなくなったら終わりだった。
 グズグズとした嗚咽が響き、手の甲で顔を拭う。
「……すんまへん。泣かすつもりは、なかってんけど……」
 彼はその日何度目かの謝罪を口にした。そしてため息。はあ、と色っぽい吐息が耳元にかかる。
 それから明石は私の背中に手をかけてゆったりとしたリズムでトン、トン、と触れた。どちらかというと幼子をあやすような仕草だった。
 彼は再び短くなった後ろ髪に指を差し入れる。
 気持ちいい。好きな人に髪を触られるのは気持ちいいのだと今この状況で知った。けれど、こんな状況で知りたくはなかった。
「や、止めてください」
 明石はばつが悪そうに手を引っ込める。
 そんなことをされたら、諦めきれなくなってしまう。
「すみません、もう大丈夫ですから」
「大丈夫なようには見えへんけど」
 明らかに明石は困惑していたけれど、大丈夫だと押し切った。大丈夫、自分は大丈夫なのだ。もうこんな些細なことで動揺したり泣いたりなんてしない。審神者はどんな時も努めて冷静に振る舞わなければならない。これ以上の失態を見せるわけにはいかなかった。
 手の甲で顔を拭い、逃れるように立ち上がる。
「もう行かれるんです?」
 彼は心なしか気落ちしたトーンで声を掛けてきた。寂しそうな笑顔を見て、思わず本音がこぼれてしまった。
「……ひ、ひどいこと言っちゃいそうだから」
「ええよ。聞きたいわそれ」
 私はかすかに首を振る。そして逃げるように執務室を後にした。
 せっかく縁の糸を切り捨てたつもりでいたのに、彼は未だに糸の切れ端を持ち続けているのだ。やめてほしい。そんなの、期待してしまう。




*


 それから私は仕事に没頭した。
 けれどふとした時に、以前の他愛もないやりとりを思い出してしまうのだ。あの人は私をからかって、花のような笑顔で微笑むのだ。私はその笑顔が好きだったけれど、思い出すたびに胸が苦しくなる。早く忘れなければ。
 幸いなことに、本丸の皆が気を遣ってくれて代わる代わる世話を焼いてくれた。
 秋田や五虎退のような可愛らしい短刀は、遠征の度にお花をくれる。そこへ乱や厚、鯰尾といった元気な刀が乱入してお祭り騒ぎになる。騒ぎを聞きつけて一期一振がたしなめに来るまでがお決まりのパターンだった。
「礼儀として口説くべきかな」と大般若が声をかけてきて、私は固まった。その言葉は私の心の柔らかいところをじくじくと刺激する。うまく言葉を紡ぎ出せずにいると、燭台切がやってきて「大般若君、ちょっとこっちでお話をしようか?」とこちらを見ながら片目をつぶり、回収していった。
「あっ、ご、ごめんね……」
 うまくかわすことができず、余計な気を遣わせてしまった。と同時に、私に何があったのか刀剣男士の間で噂が広まっているみたいだ。気を利かせてくれるのはありがたいけれど、少し気まずい。
 どうやら悪い予感は的中したようで、小夜は「復讐したい相手がいるんでしょう」と問いかけてきて、長谷部は「どこの馬の骨ですか。切り捨ててやりましょう」と今にも刃を抜かんばかりの勢いで迫ってきたのだ。
「ちょっと待って。復讐したい相手なんていないよ……!」
 私は焦った。彼らにかかれば本当に切り捨てられてしまうかもしれない。
「誤解してるよ。私はただ気分転換に髪を切っただけで……」
 長谷部は不服な様子を見せていたが、「主がそう仰るならば……」と渋々引き下がる。小夜は本体を握りしめながらなおもつぶやいた。
「あなたが悲しそうな顔をしてるから……」
「そんな顔してた? 心配してくれたんだね、ありがとう」
 小夜の頭を撫でて微笑んでみせる。審神者が動揺すると刀剣男士に影響を与えてしまうのだ、とはっきり自覚した。特に心に傷を負った者がこのように気を揉んでしまう。落ち込んでいる姿をみせるわけにはいかない。

 無意識に目をやると、あの人はお気に入りの日の当たる場所に転がり、ぼんやりと庭を眺めていた。まるで吹けば飛びそうな儚さだった。もし出陣や遠征で外に出したら、そのまま帰ってこないかもしれない。そのようなぼんやりとした不安が暗い影となって心の内にまとわりつく。
 未だに彼と向き合うこともできず、かといって出陣や遠征に出す勇気もなかった。いつまでもこのままでいいわけがないのに。


 そんな折、仕事を終えてへとへとになっていると、次郎太刀に背中を叩かれてやや強引に肩を組まれた。
「あ〜るじ、よしっ! 飲もうっ!」
「いたっ……次郎さん?」
「そんな疲れた顔しちゃってさあ。アタシと飲もう? 飲んで、嫌なこと全部吐き出しちゃおう」
 普段なら酒豪に捕まっても、飲めない私はお茶でご相伴に預かるのだけれど、今日ばかりは乗ってしまった。彼の優しさがスルリと心の奥に入ってきたのだ。
「じゃあ、一杯だけ」
 私は誘われるまま彼について行った。

 結論から言うと、一杯では済まなかった。
 次郎太刀は酒豪でもあり、また飲ませるのが上手な刀であった。優しい相槌でうんうんと人の話を聞き、そしていつの間にかお猪口にはお酒が注がれているのだ。気がつけば私は洗いざらい心の内をぶちまけ、そして何杯飲んだのかわからなくなっていた。
「ふうん、冗談ねえ。アンタ、たちの悪い男に引っかかったもんさね」
「う、うぇ……うぇぇぇん。次郎さぁぁん」
 あの時のことを思い出し、涙が止まらなくなった。次郎が「おーよしよし」と調子よくあやしてくれる。
「わた、わたし……好きだったんですよぉ……」
 今まで誰にも言えなかった。審神者たるものが刀剣男士といざこざを起こしたなんて、ましてや失恋しただなんて、彼らに知られたら士気に影響する。実際に綻びは出つつあった。それを何とか取り繕って、今日まで必死に保ってきたというのに。
 それを次郎があっけなく暴いてしまった。酒の勢いも手伝って私はわんわん泣いた。
「うんうん、そっかそっか。そりゃ辛かったろうね……」
 次郎の手は温かくて分厚くて、大きい。綺麗に手入れはされているけれど、大太刀を振るう手は力強い男の手だ。同じ男士でもあの人とはずいぶん違うのだな、と思った。
 座卓に突っ伏したまま、べそべそと鼻をすする。酒を飲みすぎたせいで頭がぼんやりしている。泣いたのも手伝ってまぶたが落ちそうだ。
 ふと次郎が黙りこくり、部屋の外に視線をやった。私は涙に濡れた座卓に突っ伏したまま意識を手放しかけていて、彼の声をほとんど上の空で聞いていた。
「おや、色男じゃない。何してるんだいそんなところで? あんたも飲む?」
 誰かが座敷に上がり、畳がきしむ音がする。
「……飲ませすぎやと思いますけど」
 柔らかい関西弁の声が聞こえたのと、私の意識が沈んでいったのはほぼ同時だった。


「どーも」
 遠くの方で声が聞こえ、とくとくと酒が注がれる音がする。そして日本酒の香りが鼻を刺激する。
 好きな人の声だ。いつだって私の胸の内をざわつかせていく声だ。
「ねえねえ。主が言ってたのってアンタのこと?」
「……なにを言い出すやら」
「トボけたって無駄さね。アンタんとこのおチビちゃんがずっと主に遠慮しちゃってさ、かわいそうったらないよ」
 しばらく沈黙。そういえばあの元気な短刀の顔を見ていないなあと思う。気を遣わせてしまったのだとしたら悪いことをしてしまった。後で声を掛けに行かなければ。
「……はあ、それで最近いやに自分に当たりがきつかったんやなあ」
 何かあるごとにあちこち小突かれてもうて、でーぶいですわ。などと彼はぼやいた。
「アンタが主に何かしでかしたと察したから、顔を見せなかったんだろ。あの子はいい子だよ」
「ホンマですわ」
 そして深いため息。いつかどこかで聞いたため息だ。私はなんだかとても悲しい気持ちになる。明石さん、悲しまないで。明石さん。
「明石さん……」
「……はいはい。明石さんはここにいますよ」
 ややあってから頭を撫でる感触がする。嬉しい。なんだかとても心地のいい夢を見ている。
「アンタ達さあ……デキてるのかと思ってたよ」
 次郎がそう言うと、むせる音がした。しばらく彼のげほ、げほ、という咳とともに「あ〜あ〜、もったいない」と言う次郎の声が聞こえ、バンバンと叩く音がする。
「……そんなんやないです」
「そう? 随分楽しそうにしてたからさ〜、春だね〜なんて思いながら見てたんだけどさあ」
「いや、まあ……」
 再び沈黙。肯定されなかったことがなんだか悲しい。
「……あーあ。なんか酔いが覚めちゃった。そろそろお開きにしよっか? この娘も寝ちゃったし」
「ほな、自分が送ってきますわ。……いや、なんですのその顔。なんもせぇへんて」
「あっはっはっ。別にアンタを信用してないわけじゃないんだけどさ、ずいぶんこじれてるみたいだから。アンタ達、ちゃんと話をしたほうがいいんじゃない?」
「……せやなぁ。ほな、どうも世話になりましたな。おおきに」


 体がゆらゆらと揺れている。
 この感覚は知っている。まるで子供の頃のように、横抱きに抱っこされている。温かくて、とても心地良い感触がする。
 やがてゆらゆらが停止すると、戸を引く音がした。冷たい布団の上に体を降ろされると、その上に薄い毛布が被せられ、ポンポンと体を柔らかく叩く感触がする。そして役目を終えたとばかり温かい感触は離れていく。ああ、行ってしまう。
 無意識に伸ばした手が何かをつかんだらしい。私の手がゆらゆらと何回か揺すられると、諦めたようにだらりと落下する。
「主はん。つかまれたら帰れへんやん」
「明石さん……」
 私はうわ言のように繰り返した。明石さん、行かないで。明石さん。ここにいて。
 今は都合のいい夢を見ているのだ。現実ではかなわないのだから、せめて夢の中でぐらいは。
「……はあ、参りましたなぁ」
 明石が頭を撫でてくれた。優しくてあったかくて、少し線が細い男の人の手。私はこの手が好きだ、と思う。
「明石さん、好き……」
 どうせ夢の中なのだ。想いを打ち明けたって迷惑はかけないだろう。
 息を飲む音。そして、頭をがしがしとかく音が聞こえてきた。
「……自分もですよ」
 ややあってから返答があった。嬉しい。夢みたいだ。駆け寄って抱きつきたいけれどうまくいかない。だって夢だからだ。
「好きやで」
 頭を優しく撫でてくれて、耳元で柔らかい声がする。嬉しいなあ。嬉しすぎて、涙が出そうだ。そのまま意識は深く深く沈んでいく。
 なんて都合のいい夢なんだろう。だけど、ひどく幸せな夢だった。



*


 翌朝、日の光と鳥の声で目を覚ました。
 見慣れた天井に家具。ここは自分の部屋だ。昨日の服のまま、私は自室で寝かされていた。どうやら次郎と飲んでいるうちに眠ってしまったらしい。彼が運んでくれたのだろうか。
 頭痛がして大変気分が悪い。そして泣きはらしたまま眠ったせいでまぶたが重い。私は今きっとひどい顔をしている。
 ぐったりと布団に横たわったまま、私は昨日の出来事を思い出そうとしていた。なんだかとてもいい夢を見た気がする。とても幸せな夢を。
「……はは、夢、かあ」
 やはり都合のいいことなんて現実には起こるわけがないのだ。のろのろと起き上がって着替えをする。頭痛がするけれど、水を飲むと少しはマシになった。しかし腫れぼったい目はどうにもならない。今日が休みでよかった。
 朝ごはんを食いっぱぐれてしまうかもしれない。けれど二日酔いのせいで食欲がなく、再び布団に転がった。
 宙を見つめたまま、ぼんやりと昨晩の飲み会の内容を思い出そうとする。
 ふと愛染のことが頭をよぎった。あれだけにぎやかなお祭り少年が顔を見せていないのだ。やっぱり次郎の言うとおり、気を遣わせてしまったのだろうか。いや、そもそも次郎とそこまで込み入った話をしただろうか? なんだか飲んでいる時の記憶が曖昧だ。
 とりあえず、愛染の様子を見に行かなければ。彼の保護者のことを考えると少々気が重いけれど。明石ともいずれ話をしなければならない。


 結局昼過ぎまでごろごろと私室で過ごした後、ようやく起き上がった。何人か心配して様子を見に来てくれたけれど、昨晩次郎と飲んだことを伝えるともれなく呆れたような顔になった。あの前田まで顔が引きつっていたのだから、私は相当なことをやってしまったらしい。
 様子をうかがいに来派部屋の近くまで行くと、愛染の声が聞こえてきた。
「国行ぃ、いいかげんゴロゴロしてないで動けっての! そんなだから主さんに愛想つかされちまうんだぞ」
 はっとして歩みを止めた。縁側で愛染が明石の背中をバシバシと叩き、明石は猫背でへりに腰掛けたままうるさそうにしている。
「何やねん……別に愛想つかされてへんわ」
「あのなぁ、オレが気づかないとでも思ってんのか? 前はあんなに――あっ、主さん!」
 短刀の優れた索敵能力によって、あっという間に私の存在が察知されてしまった。愛染が突撃してくるが、隠れるわけにもいかずそのまま立ち尽くす。
「おはよ……じゃなくて、こんにちは。愛染くん、元気だった?」
 不自然なほどよそよそしい挨拶にもかかわらず、愛染は笑顔を見せた。
「オレは元気。この通りだ! ……それより、国行が動かねぇんだ! 主さんからもビシッと言ってやってくれよ!」
「あっ、うん……そうだね……」
 まさか愛染の様子を見に来たとは言い出せず、ずるずると明石の前まで引っ張られていく。
「……どーも」
「ど、どうも……」
 明石の会釈につられて、私も頭を下げる。まるで何事もなかったかのような気負わない挨拶。ひょうひょうとした姿は以前のままで、それは彼の美点でもあるのだけれど、彼にとってはたいした傷ではなかったのかと言いようのない気持ちに襲われる。
 愛染はそんな私の様子を敏感に察知したらしい。切れ味鋭い切込みで突っ込んできた。
「……やっぱり国行が何かしたって話は本当だったのか!?」
「う、ううん! そういうんじゃなくて! 私が勝手に思い込みをしていただけで……」
 そう、私達は始まってすらいなかったのだ。私が勝手に勘違いして、冗談だとたしなめられて、出会った頃の関係に戻っただけ。……そんな風に片付けてしまえればどんなに楽だろうか。
 けれど実際にはそうはいかない。どんなに忘れたい悲しい記憶でも、それを背負って生きていくしかないのだ。
 愛染はふうん、とわかったような相槌をしたけれど、その隣からの視線が痛い。なぜだか冷や汗が出てくる。
「主はん、少しお話しまひょか」
 びくりと体がこわばるが、応じないわけにはいかない。どうせ話はしないといけなかったのだ。私は声の主を直視できないまま、こわごわとうなずいた。
「あーっと、そういえばオレ蛍に用があるんだった! 蛍んとこに行ってくる!」
「えっ、ちょっ……」
 愛染は気を利かせてくれたようで、白々しい台詞を吐き出すと、こちらの返事も待たず駆け出していった。
 太陽のようなお祭り騒ぎの短刀はあっという間に姿を消し、後には私と明石が残された。
「……ま、座りまひょか?」
 彼は隣を指し示し、促した。私は逃げ出すこともできず座るしかなかった。


 私は縁側の少し離れたところにこわごわと腰を降ろした。真横につける勇気はさすがにない。手を伸ばしても届かない距離、これが今の私達の距離だ。からかわれていた頃よりずっと遠い。
「……いい、天気ですね?」
「ホンマですわ」
「どうですか、調子は」
「うんまあ、ぼちぼちですわ」
 ぎこちないやり取りも途切れ、しばらく沈黙が続く。
「……昨日」
「ん?」
「昨日の夜、覚えてへん?」
「夜、ですか。次郎さんと飲んでたんですけど、途中で寝ちゃって……」
 そこから記憶がない、と言うと彼は少し気落ちしたようだった。
「さよか。覚えてへんねや……。ま、ええんですけど」とつゆほども思っていなそうな口調で明石は呟いた。
 寝落ちてから何かあったのだろうか? ふと昨日の夢のことが頭をよぎる。昨日見た夢と関係あるのだろうか。もう決してありえない、幸せな夢と。
「そういえば昨日、夢を見たんです」
「夢?」
「夢の中に明石さんが出てきて……。あ、困っちゃいますよね、こんなこと言われても」
 ふと彼の方を見ると優しい顔で微笑んでいて、どきっとしてしまった。
「そら夢の通い路、ちゅうやつですなあ」
「夢の通い路……?」
「そ。夢路をたどって、好いた人のところに現れるんですわ」
 そう言われて私はしばし固まった。心の柔らかいところがまたじくじくと血を流して痛みだす。
 彼はいったいどういうつもりで言ったのだろうか。また例の冗談なのだろうか。彼の浮ついた言葉に一喜一憂して、苦しんで。そんな日々から脱却するために私は髪を切って決別したつもりだった。けれど結局は同じことを繰り返そうとしている。
 もし彼が関係を取り戻すために以前と同じような行動を繰り返すのだとしたら、拒否しなければならない。
「……ごめんなさい」
「ん?」
「私はその言葉を素直に受け取れない。ひどい審神者でしょう?」
 と、顔を伏せたまま自嘲気味につぶやく。
「私、明石さんのことが好きだった。けど、ずうっと苦しかった。そうやってからかわれて、好きだと勘違いしちゃったんだ。だからあの日『冗談だ』って言われて……ホッとしちゃった」
 無理やり微笑んでみせる。これで彼との関係も終わりだった。
 私と明石の距離は開いたまま、もう詰められることはないだろう。まだ彼は私を主として認めてくれるだろうか? 刀剣男士として、出陣や遠征に務めてくれるだろうか。それはこれから話し合わなければならない。
「――なーんて。この話はこれで終わ」
「主はん」
 どすんと音がして、明石が隣に詰めて座ってきた。彼にしては乱暴な所作にびっくりしてしまう。そして彼は躊躇なく私の肩を抱いた。
「どうしたの?」
「主はん、口吸いしますから嫌やったらぶん殴ってでも逃げてください」
「なっ」
 なんで今? なんで今更?
「冗談、だよね……?」
 明石はそれに答えず、いつになく真剣な表情をしたままゆっくり顔を近づけてきた。もう片方の手で、私の顔にそっと触れてくる。夢の中で触れてきたような、優しい手だった。
 頭が真っ白になったまま、結局抵抗らしい抵抗もせずに目をつぶると、額に柔らかい感触が当たった。
「――え」
 思わず目を開けると明石の綺麗な顔が目の前にあった。美しい薄緑色の瞳が柔らかく微笑んで、今度は唇に柔らかい感触がした。離れたと思ったら、二度、三度。しつこい追撃に頭が真っ白になってくらくらしてくる。
 冗談、ではなかった。本当だった。
 それも人を惑わせるようなやり方で、こちらの心を揺さぶってくるのだ。あの日々に苦しんで、もう決して惑わされまいと決意して髪を切ったのはいったい何だったのだろうか。
 そう思うと段々腹が立ってきた。
「……ひどいよ!」
「あいた! ……はははっ」
 感情に任せてその胸をぱちんと叩く。せっかく忘れようとしていたのに、忘れさせてくれないのだ。明石はふざけた顔で痛がって、そして笑っている。久しぶりに見た晴れやかな顔だった。
「好きやで」
「……うそ」
「ホンマやって。ホンマホンマ」
 怨念を込めて言い返すと、ふわふわと羽のような軽い返事が返ってきた。なんだか一人で怒っている自分が馬鹿みたいだ。
「……はぁ〜、何を悩んでたんだろ……」
「えろうすんまへんなあ」
 軽薄な返事に、私はとうとう噛みついた。
「前から思ってましたけど、それ謝ってないですよね!」
「いやいや、謝ってますやん。この通り」
 芝居じみたポーズで大げさに手を合わせるが、顔が笑っている。
「謝ってない!」
 これでは以前に逆戻りだ。結局こうやってはぐらかされて、からかわれて、翻弄されるのだ。悔しい。
 ふと、後頭部に手が差し込まれて抱き寄せられる。
「……すんまへん」
 彼の声のトーンが一段落ち、神妙な顔をしている。そのしおらしい態度にようやく体の力が抜け、彼の胸に体を預けた。胸の中で泣くというのもなんだか悔しくて、必死で唇をかむ。これでほだされてしまうのも、我ながらチョロすぎると思う。
「これでも少しは反省しましてな、言いっぱなしはよくありまへんからなあ。ちゃあんと言ったからには行動に移すことにしましたんで、どーぞよろしゅう」
 そう言って微笑んでみせるから、私は何も言えなくなってしまった。

 ふと明石が離れの方に視線を走らせ、私もつられて首を動かした。その方向から、こそこそしゃべり声が聞こえてきたのだ。
「へー。国俊が言ってたの、本当だったんだ」
「だから言ったろ。主さんが髪を切ったのはぜってー国行が噛んでると思ったんだって」
「まーでも、よかったんじゃん。仲直りしたみたいだし」
「おう! 覆水盆に返る、ってやつだな!」
「国俊、それ違う」
「そーだっけ?」
 蛍丸と愛染が離れの影でこちらを見ているのを発見し、私は焦った。未だに至近距離で肩を抱かれたままなのを思い出し、明石の胸を押し戻して離れる。
「主はん、今更やと思いますけど」と隣からぼやきが聞こえるがそういう問題じゃない。
「見てたの!? いつ? いつから?」
「けっこう前からかな」
「そ、そんなことねぇって! 蛍、こういうのは気を遣って今来たばっかりって答えるんだよ!」
 愛染が蛍丸に小声で注意をしている。その配慮はありがたいけれど、残念ながら全部筒抜けで何の意味もなかった。恐らく言うのをはばかるような部分まで全部見られてしまったのだろう。恥ずかしくてもう顔を上げることができない。
 彼らはそんな私に構わず、明石に声を掛けた。
「よかったね国行」
「……はぁ。あんたらにはかなわんわ」
 明石はそうつぶやき、頭をかいた。


 事情を察していたらしい来派の子供達から一通りイジられて、そして彼らは去っていった。まるで嵐のような大騒ぎだった。
「せやから心配ない、言いましたやんなあ。全く失礼なやっちゃで」
「ふふふ。どちらが保護者かわかりませんね」
「主はんまで……」
 それから騒ぎを聞きつけたらしい刀剣男士がちらほらとやってきて、様々な言葉を投げかけていった。どうやら皆気にかけてくれていたようだった。ありがたいことではあるけれど、少々気恥ずかしかった。
「もう! そんなことだろうと思ったよ〜! ボクの目はごまかされないんだからね」
 特に乱からは大変なお叱りを受けてしまった。
「ごめんね……。何か言いにくくて」
「ううん、主さんが無事ならそれでいいの。――それで明石さん! 次やったら折るからね」
 乱の無邪気な口調とは裏腹に本気の殺意がにじみ出ていて、明石も「こわ……」と呟くのみだった。
「あっはっはっ! アンタたち、今日も祝杯だ! 飲もうっ!」
「次郎さぁぁぁん」
 酒瓶を片手に現れた次郎に、私は勢いあまって抱きついた。昨日の酒が残っているのかもしれない。
「いや、何飲んではるんですか……」と後ろからツッコミが聞こえてくる。
「あっはっは、そんな睨まないでよぉ〜。アタシのおかげだろ? 良かったじゃないか」
 びっくりして振り返ると、明石は睨むどころかにこやかに微笑んでいた。ただ、ぴりぴりした気配が全身からにじみ出ていて、思わず次郎から手が離れた。彼のこんな表情は初めてだった。
「せやなあ、その点については世話になりましたなあ。どうもおおきに」
「んもう、困った子だねえ。じゃあアタシは退散しようかね。主、また飲もうねぇ〜!」
「あっ……ありがとう次郎さん」
 次郎は酒瓶をぶら下げてふらふらと去っていった。もう少し話したかったのだけれど、手を振って見送るしかなかった。


「どうして次郎さんを追い払っちゃったの」
「フクザツな男心っちゅうやつですわ」と彼はよくわからないようなことを言った。
 もしかして、不用意に抱きついたから嫉妬していたのだろうか。じゃあ、さっきの告白は本当に本当だったんだ。ようやく実感が湧いてきて、じわじわと顔が熱くなってくる。
「やっと、二人っきりになれましたなぁ」
 彼は伏し目がちに微笑んだ。ぞっとするような色気にあてられて、ドキドキが止まらなくなった。
 さらさらと手ぐしで髪をいじってくる。くすぐったいのを我慢していると、じわじわと体の奥底が熱くなってきた。これは少々マズイかもしれない。
 かすかに身じろぎすると、そっと頬を寄せてきた。
「せっかく綺麗な髪してはったのになあ。自分のせいでこんなん、なってもうて」
 そう言われて初めて髪を切ったことが惜しくなった。あの時は無我夢中で、これしか手段がないような気がしていたのだけれど、今となってはなんて視野が狭かったのだろうと思う。
「明石さんのせいではないです」
「ええよ。自分のせいにしとき」
 自然と顔が近くなり、私達は再び唇を重ね合った。
 優しく表面に触れるだけだったキスが、段々と深く侵食してくる。短くなった髪の中に指を差し込んで、頭皮を刺激する。耳たぶを指で挟んでふにふにと触れてきて、その度に変な声を上げそうになった。
 抵抗しようにも抱き込まれてしまい、私は彼の腕の中で息も絶え絶えになっていた。
「主はんの髪がまた元通りの長さになったら……」
 しばらく待ったけれど、彼は口を閉ざしたままだ。私はしびれを切らして続きを促した。
「なったら?」
「そん時に言います」
「ええ……」
 これからは隠しごとはないものだとばかり思っていたけれど、そうでもないらしい。もやもやしていると明石が機嫌をとってきた。
「そんな顔せんでください。悪いようにはせぇへんて」
 わけがわからなくて、私はむすっとしたまま言い返してやった。
「じゃあ私は髪を切ります」
「ははっ、そら一本取られましたなあ」
 笑ってはいたけれど、彼はそれっきり教えてくれるつもりはないようだった。

 その後は忙しさにかまけて、明石の言葉を頭の片隅に置いたまま髪を伸ばしたきりになっていた。期待しすぎると外れた時がつらいから、なるべく期待しないようにして気楽に待ってみよう。と、前向きに思えるくらいにはなったのだ。
 数ヶ月後、彼から簪をプレゼントされて驚く羽目になるのだけれど。つくづく私は彼に翻弄されっぱなしらしい。