私の刀剣

 ある日突然、ぷつりと糸が切れてしまった。それとともに世界は暗転した。
 いや、私はもうずっと地獄の中を歩いてきたのだ。毎日毎日歴史遡行軍の血を浴び、時には自らの血にまみれ、私の刀剣が敵を屠っていく。これを地獄と言わずに何と言うのだろう。きらびやかな刀剣とよく手入れされた日本家屋、美しい庭に囲まれて心が麻痺してしまっていたけれど、ここはまさしく地獄だった。
 歴史修正主義者の拠点のひとつが見つかり、私はそこを掃討する任務に就いた。つまり、人を殺す仕事だった。破壊されれば砕けて消える敵の刀剣とは違って、人は死んでもすぐには消えない。初めて見る凄惨な死体に、私は胃がひっくり返るほど嘔吐した。
 しかし慣れとは恐ろしいものだった。いつしか嘔吐することもなくなり、ただ機械的に指示を出し、歴史遡行軍をひたすら殺戮していくだけの簡単な仕事と成り果てた。そして経験を買われて同様の仕事が回ってくるようになる。その繰り返しだった。
 モニター越しに起こっている出来事は現実感がない。しかし帰還する刀剣男士は負傷し、あるいは敵の返り血を浴びていた。これはまぎれもない現実なのだ。
 彼らの手入れをしていると、私の手が真っ赤に染まる。これは業のようなものだ。私は、私自身の手で歴史遡行軍を殺めている。私はこの業からもはや逃れられない。死後の世界があるとするならば、私は極楽へは行けない。蜘蛛の糸が降りてくることもなく、永遠に地獄でさまよい続けるしかないのだ。

 本丸の庭園は場違いに美しかった。まるで戦争をしているとは思えないくらいだ。ここで麗しい姿の刀剣男士が思い思いに過ごし、体を休めている。この世の天国のような光景。彼らがいったい人を何人殺めたのか、私はもはや覚えていない。美しい嘘で塗り固められたこの世の地獄。そう認識してしまったら、あっと言う間だった。
 日課を終え、小休憩のつもりで私は縁側に腰を下ろした。そしてそのまま立てなくなった。私の異変に誰も気づく者はいない。鳥が穏やかにさえずる声。短刀たちがはしゃぐ声。厨で本日の献立を検討する声。それらが全て雑音として処理されていく。世界は何も変わらないのに、私だけがまるで異次元に放り込まれたようだった。
 しばらくぼんやりと景色を眺める。池には錦鯉が数匹、優雅に泳いでいる。この生き物は大海のことを何も知らずに、小さな池だけが世界の全てと認識しているのだろう。そう思うと、なぜだか無性に悲しくなってきた。
 
 備え付けのつっかけに足を差し込む。よかった、動いた。よろよろとしながら、私は池のほとりまでたどり着いた。そうして路傍の石を拾い上げると、庭の池に投げ入れた。
 その度に大きな音を立ててぼちゃん、ぼちゃん、と水面が波打つ。錦鯉が驚いて暴れまわるさまが見て取れた。
「何をしてはるんです」
 ゆるりとした気負いのない関西弁が聞こえた。刀剣男士、明石国行であった。普段はのらりくらりとしているが、彼は妙に目端が利くところがあった。
「いえ、特に何も」
 言いながらぼちゃん、ぼちゃんと石を投げ入れるのを止めない。もはや誰に見られようとどうでもよかった。
 息苦しかったのだ、ずっと。審神者という職に就き、大所帯に人間の女は一人。常に審神者として正しいあり方を求められていて、私自身もそのように振る舞っていた。
 政府からは山のように指令が届く。やれ鍛刀をしろ、刀を増やせ、戦場へ行け。私はひたすら急き立てられるように刀剣を送り出した。歴史修正主義者が屠られるさまを眺め続けた。血まみれになりながら刀剣男士の手入れをし続けた。
 その結果、折れてしまったのだ。毎日毎日切り刻まれた死体を眺め、驚異のスピードで怪我が治る刀剣男士を見るたびに、心はダメージを受け続けていた。それに気づくこともなく日課に追われていて、気がつけば取り返しのつかないところまできていた。
 こうやって本丸から刀剣を送り出し歴史遡行軍を倒し続けても、この先に自分の人生などない。ただ自分の意志もなく政府の駒になって人を殺し続けるだけの人生。自らの手で命運を変えようとする歴史修正主義者の方が、よっぽど自らに正直に生きているのではないか? 一度疑問に思ってしまったら、もう止まらなかった。
 もう辞めよう。辞めてしまおう。審神者なんて。何もかも捨てて――その後どうなるのだろう。
 大義名分がなくなったら、私は戦争犯罪人だ。裁かれるのだろうか。いったい誰に? どうやって?
「お池の鯉がかわいそうですやん」
 明石の場違いな諌め方に、思わず笑いそうになってしまった。あれだけ歴史修正主義者を屠っておいて、鯉なんかに情をかけるのか。
「だから?」
「主はん」
 こんな態度、初期刀が見たら卒倒するかもしれない。彼は驚いた風もなく、まるで諭すようにたしなめる。
「私は今まで、大勢の人を殺してきた。今更鯉の一匹や二匹」
「……主はんが殺したんやない。殺したのは自分らや」
「だから何? 道具の持ち主に責任は問われないって? いいえ違う、私はあなた達に歴史修正主義者を殺すよう命じた。殺したのはこの私だ」
 そう言って自嘲的な笑みを浮かべる。
 私の手にはもはや拭っても拭っても血の匂いが染みついたまま。こんなのまともな人間じゃない。
 私は人を殺めすぎてしまったのだ。きっと極楽へも行けず苦しみ続ける。それがお似合いだった。
 明石はふと表情を緩めた。
「辛かったんやなあ」
「やめてよ」
 思わず大声が出てしまった。
「ずっと一人で気ぃ張ってましたもんなぁ。刀を握ったこともないような細っこい手で」
 まるで聞き分けのない子供をあやすように優しく語りかけてきて、私は反発してしまった。そんな知ったふうな口を聞かないでほしい。
「何それ……私の何を知ってるつもり」
「さあ、知りまへんけど。一応、本丸内のことは見てきたつもりですけどなあ」
「私がどんな気持ちでいようと、あなたには関係ないでしょ」
「自分は主はんの刀剣のつもりですけど。えらい寂しいことおっしゃいますなあ」
 気を張っていないと、泣いてしまいそうだった。こんな顔、見られたくない。
「どちらへ」
「ついてこないで」
 私はそう言い捨てて歩き出す。目的などあるわけがなかった。とにかくここから離れたい、その一心で庭を抜け、広大な裏山への道を踏みしめていく。
 裏山への道はどこか薄暗くて不気味だった。山伏など一部の修行好きな刀剣が度々行っているのは知っていたが、鬱蒼と生い茂った山に私は踏み入れたことがなかった。この裏山の向こうはどこかに繋がっているのだろうか。それとも、本丸の入口同様閉じられた空間なのだろうか。
 明石は私の言葉に反応を示すこともなく、一定の距離を置いたまま悠々とした歩調でついてきた。
 まるで捨てられた犬のよう、という言葉が頭に浮かんだが、むしろ監視されているのは自分なのだと思った。気が触れた審神者が妙な気を起こさぬよう監視するつもりなのだろう。あるいは駄々をこねた子供をそっと後ろから見守る保護者のつもりなのかもしれない。そう思うと拒絶の意を示すのが余計に子供じみた行動に思えてしまい、私は黙ったまま歩き続けた。
 舗装もされていない荒れた獣道。鬱蒼と草木が生い茂り、草いきれの嫌な臭いが鼻につく。ろくに運動もしていない体はすぐに悲鳴を上げ始め、息が乱れる。その後ろを歩調が乱れることもなく、平然と明石がついてくる。
 やがて息が上がり、私は膝をついて地べたに座り込む。彼は手を差し伸べることもなく、声をかけることもなく、ただ黙ったまま前髪を触り、佇んでいた。惨めだった。
 狭い本丸であるじ、あるじと持ち上げられているけれど、そこを出てしまえば何もできないただの小娘でしかないのだ。
 膝を抱えてうずくまる。土で汚れるのを気にする余裕はなかった。そうしてじめじめした地べたを眺め続けていると、やがて、ほど近くに腰を下ろす気配がした。
「一人にして」
「自分は刀なんでお構いなく」
 人の身を持ち、自らの意思で動き、人のような振る舞いをしておいて、都合のいい時だけ刀だと言う。勝手だ、とつぶやくと「せやなぁ」と返ってきた。
 それからしばらく、私はうずくまったまま黙り込んだ。一人じゃないと泣くこともできない。隣に座ったまま、身じろぎひとつせずにいる刀のことを少し恨めしく思った。
 不意に彼がもぞもぞと動いた。ごそごそと衣擦れの音がして、しゅっ、と何かを擦る音。やがて煙が漂ってきた。煙草に火をつけるためにマッチを擦ったのだ、と知覚するのにしばらくかかった。
 顔を上げると、煙草を片手に持つ明石と視線が合った。彼は一服ぷかりとふかしてみせると、目を白黒させて眉根を寄せた。
「吸うんだ……」
 意外だ、と思った。本丸内で喫煙する男士は何人か把握していたが、彼からは煙草の臭いなど感じたことがなかったからだ。
「いやあ、そないなわけやない……ですけど」
 それでは今吸っているものは何なのか。二の句を継げずにいると、彼は少し笑って言った。
「宗三はんが吸うてるのを眺めてたら『男の嗜みや』言うて、話の流れで。ポッケに入ってるのを思い出して、吸うてみたんですけどな」
 宗三の話をうんうんと適当に流しつつ聞いていたらいつの間にか手元に持たされていたらしい。そしてポケットに仕舞い込んだまま、今の今まで忘れていたようだった。どおりで煙草を持つ手がぎこちないはずだ。
 しばらく煙をくゆらせながら、彼はその煙草を持て余していたようだった。やがて先端から灰がこぼれ落ちそうな頃、彼は煙草の吸い殻を無造作に投げ捨てた。
「ちょっ……! 火事になっちゃうでしょ!?」
 慌てて吸い殻を踏み消す。バタバタと踏んづけているとやがて火が消えたようで、ほっとひと息つく。
 その間明石は悠々と火を消すさまを眺めていた。主の手助けもせず足を組んだまま座っている彼を見てはたと気づいた。謀られたのだ。
「……試した?」
「……いやいや、主はんを試すだなんて、そんなそんな」
 妙な間があってから、彼は答えた。
 少なくとも私は試されているように思えた。あれだけ人を殺し、自暴自棄になっておきながら少しのボヤで慌てるだなんて滑稽もいいところだった。燃えてしまえばよかったのだ。何もかも。あわよくば、自分も一緒に。
 明石は口元に微笑みを浮かべたまま、さらりと口にした。
「主はんがこの世の中を厭うなら、山のひとつやふたつ燃えてしまっても構わんやろ」
 まるで今考えていたことが代弁されてしまったようで、私は震えた。
「それは本心?」
「さあ、どうでっしゃろなあ……」
 目の前の男は頬に手を当てたまま微笑むのみ。美しい緑色の瞳がきらめいていて、その言葉が本心なのか、あるいは慌てた私を揶揄しただけなのかわからなかった。
 ただ、彼なりに寄り添おうとしてくれたのは確かだった。やはり彼は私の刀剣なのだ。
 刀剣男士は顕現した審神者に付き従い、審神者の手足となって行動する。こんな無様な姿をさらしても見捨てずに従ってくれる刀剣。彼らを放り出してこんなところで朽ち果てるわけにはいかなかった。
「帰ろう……」
 私は息を吐き、のろのろと立ち上がった。きしみ始めた手足を動かして山を下り始めると「もうええんですか」と声がかけられた。まるで家出娘に対する扱いのようであった。
「なんかもうよくわかんなくなった」
「そうですか」
「いい。今更生き方は変えられない。私は私のできることをやる」
 行く末は地獄だろうけど。
 ぼそっとつぶやいた言葉を彼は聞き逃さずにいてくれたらしい。
「それやったら、自分は奪衣婆様のとこまでついてって切り捨ててやりますわ」
「罰当たりだ……」
「それ言います?」
 明石はキョトンとしていたが、やがて笑顔を見せた。
 ふと、歴史修正主義者も同じなのかもしれないと思った。今更生き方を変えることもできず、ただ己の信念に従い突き進むことしかできない。私達は似た者同士なのかもしれなかった。私は、私達は、業を背負いながら生きていく。この命が尽きるまでは。
「帰りましょか」
 エスコートするように左手が差し出される。明石からそんな扱いをされるのは初めてで戸惑ってしまったが、素直に手を握り返す。彼は足場の悪い山道の中、負担の少ないルートを的確に選び、下っていく。さすがは刀剣男士、身のこなしが軽い。
「今日のことは、見なかったことにしてくれませんか」
「さあ、どうでっしゃろなあ」
 彼は意味ありげに微笑んだ。どこまでも食えない男だ。