明石国行はチョコレートよりも休みが欲しい


「主さ〜ん! 今年のバレンタインどうするの? やっぱり明石さんにあげちゃうの〜? いいないいなー!」
 執務室にて書類を眺めていると、乱がべったりと首にまとわりついてきた。そういえばもうすぐバレンタインデーだった。私は書類を握りつぶしそうになりながら天を仰ぐ。忘れてたわけではない、断じてない。
「ああー……そっかあ……」
「主さん、まさか忘れてたってことないよね?」
「そんなまさか。まさかねえ……」
「もう、主さんたら!」
「うう〜……」
 顔を隠す仕草をしながら、乱の咎めるような視線から逃れる。乱は唇をとがらせて大層不満気な顔をしているが、そんなところも愛らしい。彼は近侍としても戦力としても優秀で頼りになる短刀だった。こういった行事をおろそかにしがちな私にばっちり喝を入れてくれる、大変ありがたい存在なのである。
「は〜すっかり忘れてたよどうしよう。乱、今から準備って間に合う? 万屋でまだ売ってると思う? 本丸のみんなには詰め合わせでもいいかな?」
「いいけど……。主さんは手作りしないの?」
「手作りぃ?」
 思わず声がひっくり返る。がさつな私と繊細な技術が要求されるお菓子作りとは、相性が壊滅的に悪いのだ。
「無理無理、手作りなんて。一体何を期待しているやら……」
「それ明石さんの真似?」
 乱からツッコミが入った。何の解決にも至っていないけど、笑いも取れたのでよしとする。
「何の話してはるん?」
 そこへ当の明石が部屋に入ってきて、私はまるでいたずらが見つかった子供のようにびくっと肩をすくめた。明石は訝しげに私を見ていたが、乱がそこへ割って入った。
「明石さ〜ん! 主さんのチョコ、欲しいよね?」
「ちょこ……? ああ、何やら菓子をもらえる行事やったっけなあ。菓子よりも休みのほうが嬉しいんやけどなあ」
「んもう! そんなこと言ったら主さん怒っちゃうよ!」
 明石が冗談めかして言うと、乱はぷんすかと怒っている。さすが短刀、怒っていてもかわいい。そんな短刀をからかって明石はけらけらと笑っている。
 けれど私はがつんと殴られたような衝撃を受けていた。
「……そっかあ」
「ん? 主はん?」
 動揺を悟られないようにゆっくりと深呼吸する。そして来週の当番表の一部をさらさらと書き換えると、それを明石に叩きつけた。
「いやーまっことにすまざった!」
「なんで陸奥さんの真似?」
「忘れてたわけじゃないんだけど、ついつい甘えてしまいました。失礼失礼。休みにしましたからゆっくりお休みください」
 そういい捨てて執務室の机に戻る。
 当の明石は微妙に口ごもりながら「ん〜……休みにしてくれるならありがたくいただきますけど」などと言っている。
「主はんも休んだらええんちゃう?」
「休めないし、私のことはいいよ」
 今の私には、目の前の大量の仕事が待っている。秘宝の里を駆け抜けながら新しい刀剣男士を迎える準備もしなければならない。
「なあ、主はん――」
「ごめん急ぐ! 乱、出陣準備」
 ぴしゃりと言い放ち、乱を引き連れて門へ向かう。うまく取り繕うことができただろうか。

「主さん、本当にいいの?」
 正門に向かいがてら、乱が話しかけてくる。
「え? ……ああ、明石さんに休みあげてなかったから、ちょうどいい機会かなって」
「ううん、そういうんじゃなくて! 今のは明石さんが悪いよ! もっと怒ったっていいんだよ」
「怒るったって……。私のチョコレートもらったってねえ。私、こんなだからさ。そういうの向いてないんだきっと」
 乾いた笑いを浮かべる。朝から晩まで働き詰めでプライベートを切り捨ててきた、がさつで女子力など皆無の女。そんな女にお菓子をもらっても嬉しくなどないだろう。誰だってそりゃ実利をとる。極めて合理的な判断だ、と納得せざるを得ない。
「そんなことないって。主さんはちゃんと女の子だよ」
「ありがと乱。気を遣ってくれて」
「んも〜〜! だからそんなんじゃないってばぁ!! 主さんのわからず屋ぁ」
 乱はぴょんぴょん飛び跳ねながら抗議する。こんな私に一生懸命怒ってくれる、乱は優しい刀だ。


「……はぁ」
 深いため息をつき、私室の布団に倒れ込む。
 今日の任務は終わり。玉は合計三万程度集まった。雑事に追われていたためそこそこスローペースではあるが間に合わなくはないはずだ。
 政府による突然の通達。私は秘宝の里の仕様変更に未だに慣れずにいる。誰だ、あのこいこいとかいうシステムを導入したやつは。秘宝の里は部隊を鍛えながら玉を集める政府公認のレクリエーションみたいなもんだと割り切ってはいるけれど、それにしても緊張感がない。こちとら戦争中なんですけど。
 月の出る静かな夜だった。仕事を詰め込んで、必死に頭の隅に追いやっていた出来事が今になってむくむくと顔を出す。

 ――菓子よりも休みのほうが嬉しいんやけどなあ……。

 確かに最近明石には休みが少ない。仕事を手伝ってもらって申し訳ないと思っているけれど、どこかに恋人だから、という甘えがあったのは否めない。それに気づいて愕然としてしまったのだ。私は彼に負担を強いていたことを受け止めなければならない。来週一週間の明石の予定は白紙にしておいた。こんなんで許してもらえるかはわからないけど、せめてものお詫びのつもりだった。
 私はといえば、朝から晩まで仕事ばかり。自分でも自覚しているけれど、要領が悪くて時間がかかってしまうのだ。プライベートイベントなんてとてもじゃないけどやっていられない。幸いなことにチョコレートよりも休みを希望したから、私は何も用意せずにすんだ。でもそれってほんとに恋人なんだろうか? 付き合ってるって、なんだっけ?
 じわりと涙があふれてくる。
 色々と自分に言い訳をして取り繕ってみたけれど、本当は「チョコレートよりも休み」などと言われたのがショックだったのだ。まるで私からのプレゼントが不要なのだと言われたようで。つまりそれって、私との関係を続けられない、と言われているみたいだった。
「……好きだった、なあ」
 今更ながら抑えていた感情があふれてきて、手の甲で涙を拭う。

 ――主はんは頑張っていますなあ。
 ――主はん、ちょっとここ来て一休みしましょ。
 ――主はんは一人で背負い込みすぎなんやって。さ、荷物おろして、のんびりいきまひょか。

 仕事にがんじがらめになっていた私に優しい言葉をかけてくれて、単純な私はすとんと好きになってしまったのだ。
「明石さんといると、安心する……」
「そうなんや。そらよかったですなあ」
 うっかり口をついて出た好意まじりの本音に、彼は優しく頭を撫でてくれたから、勘違いしてしまったのだ。
「好きだな、その手」
「手? 手ぇだけ?」
「ううん。手だけじゃないよ」
 私は首を振る。優しい声も、その眼差しも。要領良く物事をこなして、後は昔話の兎のように昼寝をしているところも。意外に面倒見がよくて、文句を言いながら最後まで付き合ってくれるところも。そんなことをつらつら語り、そっぽを向いて表情を隠している彼を見てはたと気づいた。これじゃあ愛の告白みたいじゃないか。
「ごめん、そんなつもりは……!」
「ちぃとからかってみたつもりやってんけど、そこまで情熱的なお人やとはなぁ」
 明石は慌てる私に照れながら微笑みをくれた。それからちょくちょく執務室に顔を出してくれるようになったんだっけ。
 けれど、明石とはそれ以上の進展はない。執務室には誰かしらいるし、個人的に触れ合うような時間がないのは確かなのだけれど。もしかしたら付き合っているつもりなのは私だけなのかもしれない、と良からぬ想像をしてしまう。ダメだ。仕事で頭がいっぱいの時は考えずに済んだけれど、こんな夜はろくなことを考えない。


「主はんおる?」
 唐突に襖の向こうから声をかけられた。今一番会いたくて、そして会いたくない相手だった。足音を聞き逃していたらしく、私は動揺して気配を殺すどころか、もぞりと衣擦れの音を立ててしまった。もう居留守は使えない。慌てて枕元のティッシュで顔を拭う。
 返事もしていないうちに、彼は無遠慮に襖を開けて入ってきた。顔を合わせづらくて、私は襖に背を向けたまま上体を起こす。
「なんや起きてますやん」などと言いながら私の後ろに腰を下ろす気配がした。
「うん……。ちょっと考え事してて」
 彼の声のトーンはいつものようにほのぼのとしていて優しかった。きっと不用意な一言で私が傷ついたなどと考えもしないのだろう。
 最愛の人が後ろにいるというのに、振り向くことができない。
 彼は何をしに来たのだろう。もしかしたら、別れ話だろうか。嫌な想像がちりちりと頭を刺激する。
「どないしはりましたん」
 まるで幼子をあやすような甘やかな声が降ってきて、私は腰を抱えられた。あ、と思う間もなく明石国行の胡坐の上に座らされる。
 私はパニックになった。こんな触れ合い方なんて、今まで一度もしたことがない。それだけではなく、彼は後ろから手を伸ばすと、するすると腕から手の甲をたどり、指を絡めてきた。
「な、何!?」
「何って。いけずやわ主はん」
 耳のそばで声が聞こえて、飛び上がりそうになった。私の知っている彼は気怠げな雰囲気をまとっているけれど実は生真面目で、色恋には興味が薄そうで、決してこのような振る舞いをしてくる人じゃなかった。頭の中が追いつかない。逃げ出したい。今すぐ逃げ出したい。
「ちょっと近い! 近いよ!」
「せやろか。ふつーやと思いますけど」
 こんなの、心臓が持たない。けれど恋人だという建前上、必死に抵抗するのは憚られた。やんわりと抜け出そうとするが、執拗に指を絡めてきて捕まえるように力がこめられた。
「嫌なん?」
「嫌、とかそういうんじゃなくて。だって」
「だって、何?」
「ふ、振られるんじゃないかと、思ってて……」
 声が震えて、こらえていた涙が再び溢れてきた。いやだ、こんなの。女々しくてみっともない。泣いて男にすがろうとするなんて、こんなの私じゃない。
「……そないなこと考えてたん」
 彼の手が頭にぽんぽんと触れてきて、この人は正しく保護者なのだと納得してしまった。
 明石は泣きべそをかく私を辛抱強くあやしていた。寄り添うように肩を抱き、トン、トン、と幼子をあやすように体に触れてきて、次第に落ち着いてくる。
「ごめん。みっともないところ見せちゃって」
「別にかまへんけど」
 しばらく場に沈黙が支配する。
 昼間のこと、言ってもいいのだろうか。私にはこういった経験が少ないから、どこまで踏み込んでいいのかわからないのだ。自分より休みが大事なのか、みたいなことを言って引かれたりしないのだろうか? むしろそれで「休み」って答えが返ってきたらどうしよう? 今度こそ立ち直れる気がしない。
 などと考えてなかなか言い出せずにいると、不意に明石が言った。
「明日と明後日の二日間、主はんもお休みにしてきましてん」
「ふぇっ!? なんで!?」
 思わず振り向くと、至近距離の明石と目があった。
「ようやくこっち向きましたなあ」
「だから近いですって!」
 しまった。私はすぐに元の方向へ向き直ると手で顔を隠した。自分は今ひどい顔をしているのだ。
 彼は軽装の袖口からハンカチを取り出すと、手慣れた様子で私の顔を拭った。きっと愛染や蛍丸と同じ扱いをされているのだと思うと少し恥ずかしかった。
「……ってそうじゃなくて、私は休めないよ。秘宝の里もまだ途中だし、新しい江の刀をみんな待ってる」
「そう言われましても、もう仕事を割り振ってしまいましたからなあ。山姥切はんやろ、長谷部はんやろ、それから乱はんに蜻蛉切はん、桑名はん。出陣指揮と内番取りまとめ、書類仕事を押し付け……えーと代理の任務にあたってもらうよう掛け合ってきましてん。いやー骨が折れましたわぁ」
 彼は冗談めかして言うと、けらけら笑っている。
「えぇー……そんな勝手な」
「そうでもせんと主はんは休みを取らんやろ。もう少し他人に仕事を任せることを覚えなあきませんなあ」
 私は半ば呆然としていた。勝手に決めるなんて、と憤慨したけれど、確かに言うとおりではあったのだ。
「それは、そうかもしれないけど……でも、主が率先して動かないと」
「ええかげんにし」
「ふぎゃっ」
 ほっぺたをぐにっと掴まれる。
「いつまでも仕事仕事〜言うて仕事の話しかせぇへんし。夜はさっさと寝てはるし。まさかとは思いますけど、恋人というていで都合よく使われているだけちゃうかと思ってたところですわ」
 明石の言葉に棘が混じり、背筋がひやっとした。そんな風に思ってたのか。
 確かに仕事を言い訳にして仲を深めることをおろそかにしていたのも事実だった。そりゃ愛想をつかされてもしょうがない。自分の都合ばかりで恥ずかしかった。
「それは……まことに申し訳ございません……」
「別に怒ってへんけど」
 けれど彼はまだ見捨てずにいてくれるらしい。

「ちょこれいというても、どうせ皆さんにも渡すんやろ?」
「そうだね……。お世話になっているから、渡さないわけにもいかないし」
「せやったら、二人っきりでこうしている方がええなぁ……」
 するすると手が伸びてきて、私の手に触れていく。ゆっくりと、確実に、その感触を確かめるように。今度は拒否されないとわかると、手のひらを軽くくすぐってきた。そして腕を掴んで持ち上げると、手首に軽く口づけた。
 どうして彼が休みを希望したのか、根回ししてまで私の休みを取り付けてきたのか、わざわざ軽装を身に着けて夜半に部屋を訪れてきたのか。今はっきりと理解してしまった。
「う、うわああああ……!」
「どないしました?」
 体中から汗が吹き出してくる。顔を覆い隠して悲鳴を上げると、楽しそうな明石の声が聞こえてきた。
「ちょっと、待って……心の準備が……」
「おやおや。何を期待してるんやら」
「違うの!?」
「違いませんけど」
 耳元に熱い吐息がかかり、背中からべったりと体温が伝わってくる。私室の布団の上に恋人と二人、私だってその意味を知らないわけじゃない。けど、自分がそれをすることになるなんて、未だに信じられずにいる。そういうことから縁遠い人種だと思っていたのだ。
「おー、こないなとこにほくろが」
「ひゃっ」
「知ってました? 主はん」
「う、ぅん……知らな、い……!」
 明石の指が首筋をつついた。それから、つう、となぞっていく。喉、胸元、それから、唇。ゆっくりと指が這い回っていき、じわじわと火をつけられていく。
「あ……」
 頬に優しい感触がした。キス、されているのだ。
「主はん、こっち向いて」
 まるでキスをねだるような動きに、体の奥が甘く疼いた。そのまま振り向いたらどうなるか、いくら疎い私にも想像がつく。
 彼の指が私の唇を撫でていく。決して無理強いはしないけれど、じわじわと囲いこんで獲物が観念するのを待っているのだ。こういうところが優しくて、そしてずるいなって思う。
 逃げ場などないのはわかっているけれど、無駄な抵抗を試みる。
「……やだ」
「なんで?」
「だって……ひどい顔をしているから」
「へえ。ひどい顔、見たいですけど」
 そう言うと彼は喉の奥で笑った。いつもは優しげな明石の顔が意地悪そうに笑っているのが想像できてしまい、せめてもの抗議で太腿を叩いた。
「なんでそんな意地悪言うの!?」
「そらお互い様やん。どんだけ待ったと思ってはるんですか」
「うっ……それは、すいません……」
 そこを突かれるととても弱い。彼は調子に乗ったのか、私の太腿に手を乗せてくる。
「ええよ。そのぶん他の連中が見れないような顔をぎょうさん堪能させてもらいますわ」
 先程からお尻のあたりに当たっている何かをいよいよ無視できなくなってきた。逃れようと腰を動かすと、抱き寄せて余計にくっつけてくる。
 私は意を決して振り向く。これは決して彼の要望に応えたわけじゃなくて、ただ顔を見て一言文句を言ってやるだけなんだから。