出られない部屋に閉じ込められたが盛大に何も始まらない明さに
本丸の人気が少ないところにある、物置がわりに使われている部屋。
明石国行はそこで惰眠をむさぼっていた。
一見乱雑に物が積まれているが、少々の寝転がるスペースぐらいはあるし、入口からすぐには見えないため見つかりにくい。日当たりが悪いせいもあって、昼寝には快適な環境となっている。もっとも、審神者をはじめ一部の刀剣からは薄暗くてどこか気味が悪い、と不評ではあったのだが。
失礼しまーす、と女人の声が聞こえ、すっと襖を開けて審神者が入ってきた。数瞬の間部屋が明るくなり、そして再び暗くなる。
「このへんにしまったはずなんだけど……」
とつぶやきながら、彼女は段ボールの箱を開ける。
ほどなくして目的の物を見つけたようだ。あった、と再びごそごそと物音がして、段ボールが元の位置に戻される。
しばらくの後、小さく、あれっという声が聞こえた。
審神者が襖を開けようとしているが、何か強い力で閉じられているのかびくともしない。
「開かない」
審神者は目に見えて焦りだした。
明石は寝転がりながら、ぼんやりと彼女の行動を眺めていた。どうやら気づかれていないようだ。
「どないしはりましたん」
明石の声掛けに審神者は飛び上がった。
「わあっ!? ……な、なんだ明石かあ……」
「そない驚かんでも」
「だって、で、出たのかと思っちゃった」
彼女は力なく笑うが、少々手が震えている。相当肝を冷やしたようだ。
「この部屋、薄暗くてなんか怖いんだよ。こんなところで寝てたの?」
「滅多なことでヒトは来まへんからなぁ。ええ隠れ家やったんですけど」
折りたたまれた座布団、薄い毛布まで持ち込んでいる様子を見て、審神者は軽く笑った。
ふと。
上からひらひらと、紙が降ってきた。
審神者はそれを拾い上げ、中身をあらためると――ぐしゃり、と握りつぶした。
「なに、これ。変ないたずら……」
そして再び襖が開かないか格闘し始める。
さすがに明石も妙な雰囲気を感じとっていた。思えば審神者が入ってきた瞬間から、この空間全体にいやに張り詰めたような緊張感がある。何かのまじないか、と明石は推測する。
のっそりと寝床から這い出て、ぐしゃぐしゃになった紙を拾う。そこにはこう書いてあった。
『互いに好きと言わないと出られない部屋』
明石の眉がぴくりと動いた。
この紙からも何らかの力が感じられ、審神者がいたずらと一蹴したこの文面が力を及ぼしているのかもしれない、と推測する。
「主はん、無駄なあがきはやめとき」
「だって、この――襖が」
「どうやら、まじないでもかけられているようですなぁ。こんなん人の手では開きまへん」
審神者はぴんと来ていないようだったが、忠告に従い手を止める。
「まじない……。青江! 石切丸ー! 太郎! 山伏ー!! 誰か、誰か来て!!」
審神者は外に向かって呼びかける。だが襖を叩こうにも、最初から壁だったようにぴくりともしないのだから、本格的におかしなことに気づいたようだった。
明石は定位置に戻り、寝転がる。
「ね、じゃあその紙に書いてあるのって……本当?」
「さあ? 試してみたらええんとちゃいます?」
「その言い草……。これが本当なら、明石にもやってもらわないといけないんだけど」
「はぁ、自分が」
「互いに、って書いてある。つまり、明石も……その」
顔を赤らめて尻すぼみになっていく審神者を興味深く見つめる。
協力するつもりは、なくもない。けれど。
「別にええですやん? 出られんでも」
「は……」
狭い空間に審神者と二人きり。
好機ですらあった。
正直、紙に書いてあることを達成するのは簡単だ。だがそれではつまらない。せっかくの機会を逃す手はない。いつも通り、やる気のない風を装い手招きする。
「そんなに急ぐこともあらへんでっしゃろ。とりあえず、休憩しまへん?」
そう言い、畳をぽんぽんと叩く。
審神者といえば、なにか言いたいことを飲み込んだような顔をして佇んだまま、こちらをちらちらと窺っている。
「主はん、別に取って食おうってわけじゃあらへんし」
うっそりと笑い、心にもないことを口にする。
「べ、別にそんなことを疑っていたわけじゃないんだけどね……」
などとうそぶきながら彼女は腰をおろした。
「いいですなぁ、働かない時間。最高ですわぁ」
「まだ仕事残ってるんだよ……。先送りされるだけで、消えてなくなるわけじゃないんだからね」
「ええですやん。いざとなったら表の連中がなんとかしてくれるでしょ。主はんはもう少し仕事を任せることを覚えればよろしいんとちゃいます」
「……ううん。まさか明石に説教されるとはなぁ」
「長谷部はんや蜻蛉切はんは働く担当、自分は休む担当ですから」
「そんな担当作った覚えないぞ……」
審神者は苦笑し、ふと沈黙が訪れる。しぃん、とした物置きがわりの部屋。まるで外界から隔絶されてしまったように刀達の気配はおろか、鳥の声すらも聞こえない。
審神者は所在なげに身をよじらせる。衣擦れの音がやけに大きく聞こえる。彼女の瞳がせわしなく瞬き、口は何か言いたげに開かれ、そしてきつく結ばれる。
「そんなに見られると落ち着かないんだけど……」
そう言われて、見つめていたことに気づく。
「別嬪さんはいくら眺めていても飽きひんわぁ」
「わぁ。国宝にそんなこと言われてもフクザツだなぁ」
軽口が飛んでくるが、審神者の頬に朱が差す。手のひらがその美しいかんばせを覆い隠してしまう。残念だ、と思う気持ちはあったが、指の隙間から瞳がのぞき、こう返ってきた。
「――明石も、美しいと思いますよ」
「はぁ、それはそれは。おおきに」
型通りのお返しだと思ったが、それと同時に、ちら、といたずら心が疼いた。
「触ってみます?」
「えっ」
思いの外、大きな声で反応があった。
「触ってもええですよ」
シャツのあわせをめくる。審神者は面白いくらい動揺しはじめた。手入れの時に見たことぐらいあるはずだが。
「とと、とんでもない!」
「左様ですか。残念ですわぁ」
明石は仰向けに寝転がり、意図的に視線を外した。そしてゆっくりと目をつぶる。
もう少し踏み込めそうな気もしたが、怯えられてしまっては元も子もない。
これまでだって機を待ち続けてきたのだ。無理やり手篭めにしてしまうこともできるのだが、趣味ではない。なに、時間ならいくらでもある。
もしかしたら、審神者も気づき始めているかもしれない。この仕掛けは、どちらかが応えなければ、永遠に出ることができないということに。
いくらかの時が流れただろうか。長いように見えて、ほんの十分ほどだったかもしれない。
「あのっ」
意を決したような呼びかけに、頭を動かして視線だけで応える。
「そろそろ外に出たいんですけど……」
何を考えているのかと思ったら、ぼそぼそとわけを話し始めた。
「明石は刀剣男士だからいざって時には飲み食いなしに耐えられるかもしれないけど、私は人間だよ。飲まず食わずでいたら死んじゃうし、その……トイレだって行きたいし、お願い。協力してください」
そう言って彼女は頭を下げた。
「そこまで言われたら、まぁ仕方ありまへんなぁ」
嫌われるのは本意ではない。
むっくりと起き上がり、あからさまにほっとしている審神者に向かってスタスタと近づいていく。
「じゃあ、明石……す」
すき、と言いそうになったその口を手で塞ぐ。
「せっかちさんやなあ。短気は損気やで」
そのまま審神者の前に座り、彼女をひょいと持ち上げた。そして胡坐の上に座らせ、逃げられないよう、さり気なく両手を腰に回す。蛍丸や愛染とは違う女人の重みが太腿にかかり、欲情しそうになる。
まるで恋人同士が睦み合うような体勢であった。
「さっ、どーぞ」
「な、なんで……」
審神者はというと、顔を真っ赤にさせて固まっている。なかなかに初心な反応だった。
「こういうのは雰囲気作りが大事ですやん?」
「あ、あのねえ……違うそうじゃなくて、こんなの、良くないっ」
「左様ですか。主はんが出たくない言うなら自分は構いまへんけど」
言いながら、ゆるりと首を傾げて微笑む。仮に取りやめたとしても、この体勢から逃す気はない。どちらに転んでも悪くない。
赤い顔で睨みつけられるが、全く怖くない。そして審神者はしばらくああ、とかうう、とか唸った後、かばっと抱きついてきた。さしもの明石も虚をつかれる。「主はん、意外と積極的ですなぁ」と軽口を叩くが、余裕があるわけではない。
彼女の心臓の鼓動が、痛いほど伝わってくる。
腰に回した手を背中まで伸ばそうかと逡巡して宙をさまよわせる。やがて蚊の鳴くような声で「好き……」と聞こえてきた。ただ紙に書かれた指令をこなしているだけだと知りつつも、ぞわぞわと体中の血が沸き立つようだった。ヒトの姿を得てからの初めての経験だが、なかなか悪くない。
「――よく聞こえまへんなぁ」
「好き、です」
さっきより声を張り上げてはっきり聞こえたが、もう少し欲張ってみたくなった。せっかくだから顔も見てみたい、というのは自然な欲望ではないだろうか。
「そういうもんは、ヒトの目を見て言うもんですやろ?」
がばっと顔を上げ、きっと睨みつけられた。意志を持った美しい瞳だと思う。明石はにっこりと微笑んでその視線を受け止める。
「さっ、もう一度」
促しながら、柔らかい頬に触れる。ふと、審神者の表情がぐにゃりとゆがんだ。
「こんなのってないよ……」
内心しくじった、と焦る。なだめるように背中をゆっくりと撫でた。衣服の下に隠れたかすかな下着の感触を見つけ、反応しそうになる。
「主はんは自分のこと嫌いなん?」
「そうじゃないよ、そうじゃなくて……こんな無理やり言わされるなんて、だって、私――」
泣きそうな顔もなかなか良い、と場違いなことを考える。だが、泣かせるのは本意ではない。どうにも人の心というものはままならない。
「主はんと二人きりなら、このままでもええ思うたんです」
そう言い、唇に軽く触れた。上体を引き寄せ耳元でささやく。生きているヒトの匂いがする、と思う。
「このままずうっと二人でおれたらええんですけどなぁ……」
「そう……なの?」
髪の毛が揺れ動いて、彼女の表情があらわになる。目の縁が涙で濡れていて明石は狼狽するが、その意志を持った瞳から目を離すことができない。
「こんな時に信じてもらえないかもしれないけど……好きだったの」
「主はん……」
今にもこぼれ落ちそうな水の玉を眺める。泣いている理由はわからないが、おそらく止め方はわかる気がした。
「自分もですよ」
そう言い、再び彼女の唇に食らいついた。
何度か口づけを繰り返しながら、素早く入口の襖に目を走らせる。きぃん、と緊張感を保ったまま空間の空気は変化することがない。やはり。
邪魔やな、とつぶやいて眼鏡をはずす。そして彼女の柔らかい唇を食む。かすかな反応を見せてきたものだから調子に乗って舌を差し入れた。口腔内はぬらりと温かく、迎え入れるように差し出されてきた舌の感触を味わい、丹念に蹂躪していく。それは審神者が呼吸困難に陥り暴れ出すまで続いた。
審神者はしばらく荒い息を吐きながら恍惚の表情を浮かべていたが、ある事実に気づいたようで青ざめていく。
「待って、それじゃ開かない……」
「どうやら、そのようですなぁ」
無意識にぺろ、と舌なめずりをする。
審神者の手首を掴むと、その指を口に含んだ。ヒトの味がする。優しく甘噛みし、丹念に味わっていくと、彼女の瞳が怯えの色に変わっていく。愚かにもようやく気づいたようだった。食われる、ということに。
「やめっ……」
彼女が抵抗を始めるが、痛くもかゆくもない。山鳥毛の言葉を借りれば、哀れな小鳥。気障ったらしいのは性に合わないが、言い得て妙だと思う。
「は、離して! 来ないで!!」
「随分な言い草ですなぁ。今の熱ぅい告白は、嘘やったんです?」
明石の手を振り払い、入口まで走るが、どうせ逃げられやしないのだ。眼鏡をかけ直すと、ゆっくりと、狙いを定めた蛇のように近づいていく。
「開けて! 開けてよ!!」
襖は魔法でもかかったかのように沈黙している。無駄なあがきを続けている審神者に覆いかぶさるように立ち、手のひらを愛おしげにそっと重ねる。
「そんな、主はんに無体を働く刀なんておるわけがないですやん。好きやん同士で触れ合ったところで何も問題は……あっ」
「あっ?」
失言に気づくと同時に、かたん、と襖の鳴る音がした。ざわっと、外界の音が戻ってくる。
「開いたっ――」
「しもうたぁー」
自らの失策に衝撃を受けている隙に、審神者はするりと抜け出した。襖を引くと、難なく開く。審神者は取るものもとりあえず飛び出した。
「加州ーー! 前田ーー!! とんぼきりぃーー」
大声がだんだん遠ざかっていく。
「あかん……しくじった……」
明石は嘆息して膝をつく。そして再びごろりと横になった。彼女を手篭めにできるまたとない機会を凡ミスでふいにしてしまったのだ。
つまり、からくりはこうだ。好き、という文字の並びさえ口にしてしまえば開くのだ。例えば好きな食べ物を告げるだけでも開くだろう。あんな真面目に愛の告白などする必要などなかった。
あの文面が書かれた紙はいつの間にか消えてなくなっていた。あのまじないは都合のいい幻のようなものだったのだろうか。それとも、自分の無意識な欲望が影響して現れたのだろうか。
それにしても。明石から笑みがこぼれる。さっきの情熱的な告白、扇情的な面構え。あれはなかなか良かった。彼女の本音らしきものも手に入れたのだ。何を焦ることがあるだろうか。彼女の心はもはや手中にあった。あとはじわりじわりと詰め寄れば、いずれ陥落するだろう。
たたたっと足音が戻ってくる。審神者がそっと部屋をのぞき込んできた。そして明石の姿を認めると指を突きつけてこう言った。
「さっきのはノーカン! ノーカンだからね!!」
言い捨てて、今度こそ審神者は去っていく。
のーかん、とはどういう意味なのだろうか。
明石は目をつぶる。わからないのだから、都合よく忘れることにした。