傲慢な神様
「明石さん、……好きです」
「はぁ、左様ですか」
審神者の決死の告白を、明石国行は何でもないことのように受け止めた。受け流したと言ってもいい。そこには何の感情もなく、感慨もない。
正直言ってショックだった。せめてもう少しは反応があると思ったのだ。あの、その、と口ごもる審神者に、彼はあくまでも冷静だった。
「どないしはりました」
彼は静かな声で問うが、そこに一切の動揺や情けが含まれていないことに気づくと「何でもありません」と引き下がる他なかった。
審神者は逃げるように廊下を駆けた。視界がぐにゃりと歪む。そして私室で一人泣いた。
明石と楽しく語り合った日々を思い出す。あれは優しさではなかったのか。彼はにこやかに話に応じてくれた。楽しいと思っていたのは自分だけだったのだろうか。夕食もろくに喉を通らず、審神者はそれから一晩中泣いた。
泣き疲れていつの間にか寝てしまったらしい。
翌日。寝不足で働かない頭を必死に動かしながら本日の任務に当たる。
「今日の遠征隊長は、と……」
その姿を認めて、審神者は固まる。今、一番会いたくない相手がそこにはいた。
昨日、審神者の告白に何の反応も示さなかった彼がいつものように少しだけ微笑んで「どないしましたん。自分の顔に何かついてます?」と問うた。
「いえ……。何でもありません。今日の第二部隊隊長、よろしくお願いします」
つっけんどんになりそうなのをぐっと堪えて、極めて平静な口調で答えた。他の隊員の目もあるし、審神者の心の乱れを悟られるわけにはいかない。うまくごまかせただろうか。
「はあ……長期遠征は疲れるんやけどなぁ。行ってきますわ」
彼はそうこぼしながら、隊員と共に遠征へ向かった。まるでいつもの通りに。
彼は何も変わらない。
「自分、働きたくないんやけどなぁ」
いつものように愚痴をこぼしながらゆるりと任務をこなす。
これでよく告白しようと思えたものだ。自分は彼の心に楔を打ち込むことすら叶わなかったのだと、はっきり見せつけられたのだ。
遠くから愛染と蛍丸がはしゃぐ声が聞こえる。
その傍にはきっと彼もいることだろう。
以前はつい目で追って、そして隙あらば話しかけに行っていただろう。だが今は、それを見るのがつらい。彼が来派の子供達に向ける優しい視線、それが自分に向けられることはない。
「――あの、これ。お花です!」
秋田が遠征帰りに花をくれた。お礼を言うと「元気出してくださいね」とはにかみながら言うのだ。気づかれていたのか、と彼の優しさに泣きたくなる。
「うん……。私、頑張るね」
こんな主でも従ってくれる刀剣達がいるのだ。彼らのためにも、気を引き締めなければ。
それからしばらくは、忙しさにかまけてなにも考えずにいられた。
審神者は息抜きがてら厩に寄る。馬を見て癒やされたかった。厩をそっと覗くと、見慣れたジャージの後ろ姿が目に入った。会いたい、けど今一番会いたくない刀剣。
「馬は普段、何考えてるんでっしゃろなぁ……」
大きなスコップを片手に物憂げにつぶやいている明石に、審神者は言葉を投げかけたくなる。あなたこそ、何を考えているの。
こそっと引き返そうとしたら、気配で気づかれてしまった。
「おや、主はん」
「あ、明石さん……。馬当番はどんな感じ?」
「ぼちぼち。大包平はんがやる気出してくれてるので助かりますわ」
大包平は飼い葉を運びに行っているらしい。あの刀は見た目と違い、汚れ仕事もいとわない。きっと言いくるめられていいように使われているのだろう、とその姿を想像してしまい、審神者はくすりとした。久しく忘れていた感情であった。と同時に、もうこのように世間話をすることもあまりないのだと思うと気持ちがしおれていくのを感じる。
明石はそんな審神者を無遠慮に見やる。
「なんや最近粟田口の子らと仲良ぉしとるらしいやん」
「ああ……秋田くんや五虎退くんがお花を持ってきてくれるんですよ」
まさか彼の方から世間話を振ってくるとは思わなかったので、当惑しながら答える。
心優しい彼らは落ち込んでいた審神者に甲斐甲斐しく世話を焼いてくれた。ぽわぽわした頭を撫でると、彼らが刀であることを忘れそうになる。
だから、明石からの言葉に耳を疑った。
「――人間というものは、随分移ろいやすい生き物ですなぁ」
「えっ……」
何を言っているのだろうか。
審神者が愛の言葉を告げたときも、彼は何の反応も示さなかった。関心がないのだと諦めたというのに。忘れかけていた感情がまたじくじくと痛みだす。
「だって、でも――」
「最近ちぃともお話に来てくれまへんから、飽きてしもたんかと思いましたわ」
「……いいえ、そんなことは」
「それなら、」
明石は遮るように言う。
「それなら傍に置いてくれはったらよろしいですやん」
「は……」
審神者は言葉を失う。
何の反応もよこさずにいた彼が、傍に置けという。
「明石さんはそれでいいの?」
「いいも何も、自分は刀ですし」
わからない。彼の考えていることが。
ただ、明確に人とは違うということだけを理解した。彼は人の姿形をとっているが、あくまでも刀なのだ。それに情愛を向けるということがいかに愚かしいことであったか、審神者は本能的に理解してしまった。
その日から奇妙な生活が始まった。
彼は暇さえあれば執務室の片隅で横たわるようになった。時折ぼんやりとした視線を寄越すが、それだけ。仕事を手伝う素振りもない。
何か用を言いつけると、のろのろと体を起こし任務をこなすが、戻り次第「休んでもええでっしゃろ」と、執務室で横たわるのだ。
どうしてここで休むのだろうか。気になるが、声をかけることは憚られた。
はじめに限界にきたのは長谷部だった。
「主! なんなんですかあの刀はっ!」
「おーおー長谷部はん。羨ましいんやろか、主はんの寵愛を受けるこの身が」
「なっ!! 貴様、表へ出ろ」
すらりと刀を抜き放った長谷部を、審神者は苦々しく思いながら諌める。
「長谷部さん、刀を収めてください。……明石さんも挑発はやめてください」
審神者は困惑していた。寵愛、と言えるようなことなど何もしていない。思いが通じ合ってすらいない。冗談にしてもたちが悪すぎる。彼が何を考え、執務室に入り浸っているのかわからない。
もしかしたら、という期待もなくはないが、優しい言葉もなく指一本触れてこない彼に何を期待しろというのだろう。これで勘違いして関わりにいった結果、拒絶されてしまったら。これ以上傷つくことに審神者は怯えていた。
「明石さん。止めましょう、こういうことは」
「何故です? 自分はここに寝ているだけ、やましいことなどあらへん。美術品として床の間にでも置いとったらよろしいですやん。長谷部はんは御用刀として任務を果たせばよろしい」
自分、刀時代には人を斬ったことなどあらへんし。美術品みたいなもんですわ。そう言ってうっそりと微笑む明石は酷く官能的に思えたが、一方で彼は刀の付喪神なのだという思いを強くした。彼は、人とは違う。審神者にできるのは美術品のごとく鑑賞し、あるいは敵を斬り刻むだけ。触れればきっとその鋭利な刃先で傷がつくだけだ。
審神者はため息をついた。
「長谷部さん、彼もああ言っていることですし、気にせず仕事することはできますか」
「は。主命とあらば……」
渋々といった体で長谷部は刀を収める。だが、納得いっていないということは視線でありありとわかった。
そこからは、長谷部と張り詰めた空気の中仕事をする羽目になった。それをぼんやり眺めながら、明石はあくびをする。
いっそ明石を近侍にすれば、このような面倒ごともなくなるかもしれない、と頭をよぎる。
だが、それでも明石を近侍にするのは止めておこうと思った。これは小さな意地のようなものであった。
「知らせが来ているね」
それからまたしばらく日が過ぎて。何やら仰々しい封書を蜂須賀が持ってきたので、審神者は封を開け中身に目を走らせる。
「どうしたんだい」
蜂須賀が促すまで審神者は時を止めてしまったように動かず、ただならぬ雰囲気にさしもの明石も上体を起こして様子を窺った。
「政府から……縁談の話が」
「縁談? それはまた急な」
政府の担当部署からの斡旋ではあるが、実家からも一枚噛んでいるようだった。仕事に精を出すのも結構だけれど、あなたも女としての幸せを――云々。そこまで読んで審神者は書簡を握りつぶす。
「こんな勝手な――」
審神者は怒りがおさまらない。蜂須賀が肩を抱いて諌める。
「君は審神者だ。堂々と胸を張ってお断りすればいい」
明石はというと、再び関心をなくしたように肘をついて寝転がった。
「君からは何か意見はないのかい」
蜂須賀が明石を横目で見やる。明石が執務室に入り浸っていることについて直接何か言ってきたことはないが、やはり存在は気にしていたようだ。審神者が聞けずにいたことを代弁したとも言える。
だが、彼の返事はつれないものだった。
「はあ。特に何も」
「そうかい? 君のような刀が執務室に入り浸るなんて、随分入れ込んでいるみたいだから」
「自分は意見できる立場とちゃいますからなぁ」
核心に触れようとすると一歩下がる。
期待はしてはいけない。わかってはいるけれど、それならどうして傍にいてくれるのか。審神者の心はくすぶるばかりだった。
この日は細かいミスばかりした。
さすがに帳簿の桁を数え間違えた時は頭を抱えたが、蜂須賀の献身的なサポートもありどうにか仕事をこなした。彼がいなかったら、書類を投げ捨てて泣き出していたかもしれない。
何が心を乱しているのかわかっている。あの縁談の手紙、そして何も触れようとしない明石の態度。彼の本心はどこにあるのだろう。
出陣部隊も帰宅し、浦島虎徹が夕餉を知らせに来た。
「主さん! ご飯だよぉー!」
「おや浦島、ありがとう。……ちょうどきりのいいところだし、仕事は終了にしようか」
「あ、うん。ちょっとまだやることがあるから、先に行ってて」
審神者が声を掛け、蜂須賀が浦島とともに退出する。後片付けをしていると、明石がのそりと起き上がった。
「明石さん」
彼の動きがぴたりと止まる。
今までずっと声など掛けられなかったが、恐らくこれが最後の機会だと心を奮い立たせる。
「あなたはどう思ってるの。本当のところを教えて」
「ええんですか、そんなこと聞いて」
後悔しても知らんで。日が落ちて、暗くなりつつある部屋で彼の静かな声が響く。
「明石さんはどうして何も言ってくれないの……。なのにどうして、傍にいるの」
「自分は主はんのもんですから。好きも嫌いも、左様ですかとしか言いようがあらへん」
「そう、ですか……」
審神者は唇を噛みしめる。やはり相手は付喪神なのだ。人の常識で推し量れるような代物ではない。
この煮え切らない思いを断ち切るためにも、縁談は受けるべきなのだろう。諦めの境地で背を向けたところ、後ろから声を掛けられた。
「先程はあないなことを言いましたけど、やっぱり面白くありまへんなあ。――自分のもんが他に取られる、ちゅうことは」
「は――」
背筋がぞわっとした。
彼は審神者のことを自分のもん、と評した。
初めて自分に関心を寄せる言葉を発したが、喜びというよりも本能的な恐怖が勝った。これでは思いが通じ合った、というよりまるで隷属したようではないか。
「うそ……」
審神者は振り返る。だって、今までそんな素振り、一度も。
と考えたところで、執務室にずっと入り浸るようになったことに思い至る。これが彼なりの好意の示し方だとしたら。
「嘘かどうか、試してみましょか」
そう言い、審神者の肩に手を掛ける。そのまま体が傾き、押し倒されたのだと知る。
夕闇に彼の瞳が妖しく光る。不思議な色の瞳は、今や淡緑色に染まっていた。肌を上気させ、荒い呼吸音だけが部屋に響く。
「やめ――」
明石は自らの腰に手をやった。そしてすらりと刀を抜く。彼の美しい刀身が薄暗い部屋で白く光を放った。
乱暴されるどころか、最悪のシナリオが頭をよぎった。審神者は恐怖に震えるが、動くことができない。目をつぶると、すうっと頬を冷たいものがなぞり、そして一瞬遅れて痛みがやってくる。
恐る恐る目を開くと、彼の刀身に血がしたたっている。明石はそれをつう、と舐めとった。
「あーあ。お嫁に行けなくなってしまいましたなぁ」
明石は恍惚とした表情でうっすらと笑った。
縁談は流れてしまった。
まさか、頬に傷をつけられただけで流れるとは思っていなかったが。自身の刀を制御できない審神者という烙印を押されたからか、真相はわからない。ただ、政府の担当は言葉をなくしていたし、先方は何かに怯えていたようだった。刀傷のついた女など、やはり嫁にはふさわしくないのだろうか。
蜂須賀が頬の傷を見て痛ましそうな顔をする。
「すまない、僕がみていれば――」
「どうして蜂須賀が謝るの」
「まさか明石が主に手を出すなんて思っていなかったんだ。彼はその、読めないところがある刀だから」
「そんな大げさな」
ただ頬に傷をつけられただけ。審神者は笑い飛ばそうとしたが、何やらただならぬ雰囲気であることは彼の表情から窺えた。
審神者はそれから、没頭するように戦に精を出した。遡行軍の勢いは、今もなお潰えることはない。
なんだか時の流れが曖昧に感じる。もう何年も戦っているような気もするし、あるいは一瞬だったのかもしれない。
丁寧に処置してもらった頬の刀傷は消えることはなく、たまに思い出したように痛み出す。そんな時にふと明石のことを思い出して振り返ると、彼はただうっそりと笑うのだ。
審神者の傍らには、いつも明石国行がひっそりと寄り添っている。