海辺の合宿

 
 目の前は海。外はじりじりと照りつける日差し。ビーチパラソルの中では日差しこそは遮られているものの、刺すような熱気が伝わってくる。
 隣で扇いでいるうちわから、ぬるい風が時折流れてくる。
 どうやら愛染の私物であろう赤地に黒の文字ででかでかと「祭」と書かれたそれを、やる気がないと自称する彼が持っているのはいささか不似合いな光景であった。
 明石国行。本日の近侍であり、審神者の身辺警護を名目に海辺に近寄らないことを選択した刀である。


 連隊戦に先駆けて海辺の合宿を行う通知が政府から届いた。本丸の皆は訝しがっていたが、どうやらそれが慰問の一環であるらしいとわかった時、短刀をはじめとした刀剣達は沸き立った。
 たまたまその通知を持ってきたのは明石だった。嬉々として合宿用の支度を整える愛染と蛍丸に圧されて、彼は「はいはい。しゃーないなぁ」と保護者っぷりを発揮していたが、審神者の前では皮肉げに「お上はけったいなこと考えますなぁ」とつぶやいたのみだった。


「明石さんはみんなのところに行かなくていいんですか? 愛染くんたちも遊んでますよ」
「海なんて濡れますし暑いですやん……。そんなんようしまへんわ」
 明石はこちらを見もせずにただうちわを扇いでいる。
 予想していた答えではあった。彼はこの合宿を歓迎しているわけではない。ただ蛍丸と愛染が行きたがるからついてきただけだ。
 浅瀬では、他の刀達とともに愛染と蛍丸が水砲兵を装備し、水をかけあって遊んでいる。
 もしかしたら蛍丸は海辺を恐れるのではないか、と審神者はずいぶん気を揉んだが、当の本人は気楽にパシャパシャと波を蹴っている。そのあたりは保護者を自称する明石も同意見であったらしく、口にこそ出さないが浜辺で遊び出すまでは蛍丸を注視している風であった。もっとも今は肩の荷が下りたらしく、足を投げ出してゆるゆるとうちわを扇ぐのみだ。
「あっつぅ……」
 審神者は首元まで閉じたラッシュガードの胸元を掴んで揺する。一瞬風が通るがそれだけで、またじわじわと嫌な暑さが肌にまとわりついてくる。
 いっそ水着になりたい、と思う。ラッシュガードなんて脱ぎ捨ててしまいたい。だが近侍は頑として譲らなかった。
「年頃の娘さんが肌を晒すのはどないなもんでしょうなぁ」
 乱と一緒に水着のカタログをめくっていたら、なぜだか彼がひょっこり現れて言ったのだ。言外にはしたないと言われているようで、口をつぐむしかない。乱はぶーぶーと抗議していたが、彼の長兄まで参戦することになり沈黙せざるを得なくなった。結局審神者は長袖のラッシュガード、下は半ズボンまで履いて参加することとなった。理想とは程遠い現実。
 隣の近侍をちらりと見やる。ゆったりとした海水パンツに、がばっと前が開いたままラッシュガードを羽織っている。男の人は肌を露出をしていても許されるのだから、世の中は理不尽なものだと思う。
 審神者の無遠慮な視線に気づいたのか、明石と一瞬視線が合い、すぐにそらされる。不自然な沈黙が場を支配した。
 どうして傍にいるのだろう。
 どうして近侍を引き受けたのだろう。
 彼とは最近うまく会話をすることができなくなっていた。顕現したてで、まだお互いをよく知らない時の方が、よく会話をしていた気がする。明石も鷹揚に笑っていて、蛍丸の世話を焼こうとして逆にあれこれと世話されているなんて嬉々として報告してくれたっけ。
 あの時のような他愛のない会話は、今はもうできない。いつしか彼の表情は物憂げなまま固定され、会話も少なく途切れがちになり、そしてそのかわり審神者の至らぬ点をあげつらってくるようになったのだ。特に「年頃の娘さんがそないな格好をしたらあきまへんやろ」は耳にタコができるほど聞いた。まるで審神者の保護者にでもなったような言いぐさだった。
 やる気ないを標榜する彼をそうさせてしまった原因はいったい何なのだろう。もしかしたら、審神者が気づかないところで未熟な部分があるのだろうか。至らない振る舞いが原因なのかもしれない。そう思うと身が縮む。
 だが、自分からそれを指摘するのは憚られた。もしかしたらただの思い違いかもしれないという思いを捨てきれずにいる。この微妙な距離は開いたままだ。


 ふと、指先に熱を感じた。
「……ん」
 無造作に置かれた審神者の手の上に、明石の手が触れているのを見て取り、審神者は反射的に彼の方を見た。
「こう暑いとやってられまへんなぁ」
「そ、そうですね……?」
 だが、彼の口から発せられたのは、ただの、何の変哲もない世間話だった。
 手が触れていることに気づいていないのだろうかと口を開きかけるが、なんと言っていいかわからずただ吐息だけが漏れた。なぜだか頑なにこちらを見ようとしない明石にさすがに不自然さを感じ、それに気づいた瞬間に体中が熱くなった。
 それと同時に手が重ねられ、遠慮がちに指を絡めてきた。審神者は耐えきれず視線を外したが、彼は相変わらずこちらを見ようともしなかった。
 波の音が聞こえる。男士達のはしゃぎ声も。だがそれはまるで世界から隔絶されたかのように遠かった。
 手から伝わってくる熱。ただそれだけがリアルだった。


「あるじさーーーん!!」
 ふと、愛染の大声で現実に引き戻された。それとともに砂を踏みしめる音。そして豪快に水が飛んでくる音。水砲兵が水を噴射したのだ。水しぶきがぴちぴちと降りかかる。
 甚大な被害を被ったのは、隣にいた明石だった。蛍丸と愛染、合わせて四つの刀装から放たれた水の威力をまともに受け、ずぶぬれになる。持っていたうちわも耐えきれず、ずたぼろになった。
「じゃーん。すいほーへーでーす」
「よっしゃあ! 当ったり〜!」
 はしゃぐ二人。明石はうちわを捨て、眼鏡を外し水滴を拭うと再びかけ直した。そしてゆらりと、まるで鎌首をもたげるように立ち上がる。
「蛍丸。国俊。やってええことと悪いことがあるなぁ?」
 明石は静かな声でそう言うと、全身から水滴をぼたぼたとたらしながら、一歩一歩、ビニールシートの上を踏みしめていく。めったなことでは見せない不敵な笑みに、これは本気で怒っているなと審神者は察した。だが愛染達はものともしない。
「なんだよ。訓練に来てんのに、さぼってんのが悪いんだろ」
「あんなぁ。自分は近侍として――」
「へー。近侍の仕事って、主さんの手を握ること?」
 蛍丸の言葉に彼の歩みがぴたっと止まる。
「主さん! 国行になんかされて嫌だったら言えよ? オレがぶっ飛ばしてやるから」
「えっ」
 突然水を向けられて、審神者は固まるしかない。もしかして愛染と蛍丸は見ていたのか。明石が手を触れてくるところも、全て。羞恥で顔が熱くなる。
 それには明石もさすがに動揺したらしく、慌ててサンダルを履きパラソルの中から飛び出していった。
「国俊ィ!」
「やっとやる気になったか? こっちだ!」
 持ち前の機動力で彼らは駆けていく。
 来派の追いかけっこを眺めながら、審神者はさっきまでの手の感触を思い出していた。
 嫌じゃない。嫌じゃなかった。触れられたところが今も熱をもったようにしびれている。自らの手をじっと見つめ、感触を確かめるように開き、再び握りしめた。