キスの日(審神者編)
仕事も終わり、恋人と私室で二人きり。至福の時間のはずが、私の気分は晴れずにいた。
私は明石のくつろぐ姿を眺めながら、話しかける機会をうかがっていた。そして勇気を出してこう告げる。
「今日はキスの日なんですって」
「……左様ですか」
明石の眉がぴくりと動くが、それだけだった。
「それで? どないしはりましたん」
問い返されて返答に詰まる。察してほしいが、彼は恐らく察しが悪いのではない。わざとだ。わざと察しが悪いふりをして、こちらの様子をうかがっている。
だがここまで言ったのなら後に引けない。私はさらに一歩踏み込んだ。
「……キス、しませんか」
「主はん。そういうのは踊らされてするもんちゃいますやん」
彼は茶化して言うが、正論だった。自分の浅ましさを指摘されたような気がして、かっと頭に血が上る。
「いや! だってこういう理由でもつけなきゃ何にもないじゃないですか!」
私は彼の襟を掴み、膝の上に馬乗りになった。そう、明石と私の間には何もないのだ。思いを告げ、晴れて恋仲になったはずが何の触れ合いもない。
こんな必死なのに「主はん、積極的やなあ」と彼の余裕の表情は崩れなかった。
その顔を見て、私は急に虚しくなった。明石からはなんの手出しもない。キスしたり触れ合いたいと思っているのも、たぶん私だけだ。このように無理やり唇を奪ったところで何になるのか。
私は意を決してその頬に唇を寄せた。これは私の気持ちだ。一方的で独りよがりな、私の気持ちだ。最初で最後の一方的な触れ合い、そのつもりだった。
先日思いを伝えたつもりでいたけれど、もしかしたら独りよがりだったのかもしれない。受け入れてくれたと浮かれていたけれど、恐らく審神者だから断らなかっただけだ。今まで愛の言葉が囁かれることもなく、指一つ触れてこなかったのがその証左だ。どうしてそこに思い至らなかったのだろうか。情けなくて、涙が溢れてきた。
「主はん、狙うとこそこちゃうで」
ここ、と自らの唇を指し示すが私は直視できない。それは私のものじゃない。
顔を隠したまま立ち上がろうとしたが、腰に手を回されて押さえつけられた。
「まだ終わってまへんけど」
「知らない! 離して!」
「はあ。仕方ありまへんなあ」
そう言うと彼は口を寄せた。私は逃れようとして後ろに倒れ込む。思ったより衝撃がこなかったのは、彼が背中を支えてくれたからだった。優しく畳に私の体を横たえると、自由になった手が私の腕をつかむ。涙に濡れた顔が白日の下にさらされた。そして涙を暴かれたまま、口を塞がれた。初めてのキスは、涙の味だった。
「すんまへんなあ。泣かすつもりはなかってんけど……」
膝の上に抱かれたまま、背中をさすられ子供のようになだめられていた。
「つまり主はんは、キスもして欲しいし触れ合いもめいっぱいしたいと。そういうことでよろしいな?」
私は首を振る。
「違う」
「違う?」
「そこに愛がなければなんの意味もない。義理でやろうとしているなら、いらない……」
私は破滅の言葉を口にした。恐らくこれで仮初めの関係は終わりだ。彼は付喪神だから、愛の意味などわからないかもしれない。人と同じように考えてはいけない。こんな風になだめてくれるのも、きっと私が泣いたからだ。これに甘えてはきっと駄目だ。
横から顔が近づいてくる気配がした。優しい感触が頬に触れる。
「じゃあなんの問題もありませんなあ」
そして横から淡く唇を触れ合わせた。
「働くのは気が進みまへんけど、他ならぬ主はんの頼みやからなるべくご希望に沿うよう頑張らせていただきますわ。腰が立たんようになってしまうかもしれへんけど、堪忍な」
「……え」
ぐら、と私の体が傾いだ。
明石の瞳が薄い黄緑色に妖しく揺らめいていて、ようやく私は悟った。彼は私に関心が薄いのではない。ただ様子をうかがっていただけ。絶対に逃さないよう、牙を剥いて食らいつくタイミングを虎視眈々と狙っていただけだったのだ。
この後私は宣言通り腰が立たなくなるほど、いやというほど愛されたのだった。