犬も食わない

 今日は久しぶりの女子会だった。初めて行ったお店で同僚の審神者達とお酒を飲んで、そして少々羽目を外しながら他愛のない話で盛り上がったりした。審神者は玄関に続く飛び石をふわふわした足取りで歩く。お酒も手伝って、大変に陽気な気分だった。
「たっだいま〜……っと」
 誰もいないだろう、と何の気なしに戸を引くと、そこには本日の近侍が座り込んでいた。まさか出迎えに来ている者がいるとは思ってもいなかったので、審神者の呼吸が一瞬止まる。
「……お帰り」
 近侍の明石国行は上がり框に腰掛け、だらんと壁にもたれかかっていた。戦装束のマントがぐしゃっと尻の下で潰れ、ついでに頭が壁に向かって傾いている。まるで待ちくたびれた、とでも言いたいような風体だった。
「え、明石さん。……もしかして待っててくれたの」
「いやあ、そないなつもりは」
 なんだかあやふやな返事だった。彼はあくびを噛み殺し、面倒くさそうに立ち上がると伸びをした。華奢な体がさらに細長くなる。そして審神者の姿をじろじろと眺め、頭をがしがしとかき、これ見よがしにふう、と大きなため息をついた。
 浮ついた気持ちはすぐにしぼんで消えた。彼が近侍以上の個人的な感情で迎えに来てくれることなんて元々期待はしていなかったので、顔を出してくれただけでも嬉しかったというのに。これは大変に機嫌が悪い。
「……なんで怒ってるの。女子会――同僚の審神者さんと飲み会に行く、ってお伝えしたはずですけど」
「別に怒ってへんけど」
 と、近侍の明石は不機嫌さを隠そうともせずに言った。
「ただなあ、嘘ついてまで行くのは感心しまへんなあ」
「え……」
 審神者は目を見開いた。彼が不機嫌になるほどの嘘など、全く心当たりがなかったからだ。
「嘘なんてついてない、ですけど」
「そうですかぁ」
 明石は小指で耳をほじりながらため息まじりに返した。こちらの言い分をひとかけらも信じていないような返事だった。
「その割にはオトコがいたようですけど」
「は……」
 男などいない。誤解だ。と言おうとして、口を開きかけて閉じる。
 心当たりがあったからだ。
「いや、違うんです……! 確かに男性はいたんですけど、明石さんが想像するようなのではなくて……なんていうんですか、給仕の人が男性だっただけで」
「ほぉん。それでその給仕のお人と……ナニをしてはったんやろなぁ?」
 審神者の喉からひゅっと空気が漏れる音がした。
 なんで知っている? 今日は近侍も同伴しておらず、審神者仲間も漏らすはずがない。ばれる要素などなかったはずだ。どうしてばれてしまったのだろうか。
「な……なんで……」
「さあ? なんでやと思います?」
 明石はうっすらと笑みを讃えながら一歩近づいた。審神者は反射的に一歩下がる。そしてまた一歩、一歩と詰められ、気づいたら壁際に追い詰められていた。壁に手をついて、覗き込むように顔を寄せてくる。
 審神者の額から汗が吹き出してきた。まるで見たことのないような冷たい笑顔に、審神者は耐えきれず口を割った。酔いはすっかり醒めてしまっていた。
「ちが、違うんです……。私はただ、なんにも知らないでついて行っただけで……」


 ことのあらましはこうだった。
 いつもの気心のしれたメンツでの女子会。いつも通り、政府の愚痴や仕事のこと、刀剣男士との他愛ない日常話や恋バナに花を咲かせる予定だった。
 しかし今回は違った。同僚の審神者がおもむろに切り出したのだ。
「私、行ってみたい店があるんだけど。せっかくだから行ってみない?」
 そうしてわけもわからず連れていかれたのがいわゆる「コンセプトバー」というやつだった。筋骨隆々のお兄さん達が給仕してくれて、そして多少の接触は許される店だ。
 重厚な扉を開けるとそこはさながら異世界のようだった。天井から吊るされた豪奢なシャンデリアに目を奪われる。優雅な雰囲気とは裏腹に威勢のいい掛け声がかけられた。ガタイのいい店員が現れ、少々、というにはノリの良すぎる手厚い歓迎を受けた。審神者が目を白黒させていると、同僚の審神者はあけすけに言ってのけた。
「よし、今日は近侍のことは忘れる! 飲もうっ!」
 彼女とは密かな恋心を打ち明けあった仲だった。近侍との道ならぬ恋に、お互い頑張ろうね、と誓いあったはずだった。一体何があったのだろう。まるで次郎太刀のような思い切りのよさ、と言ってしまえば聞こえがいいが、これではまるでやけ酒だった。
 彼女は豪快に酒を煽り、筋骨隆々な店員から歓待を受けていた。その隣で審神者はビビりながら小さくなっているしかない。
 確かに店員達は山伏や岩融に勝るとも劣らない、いい体格をしていた。しかし、これでは。そのようなことをしてしまっては。近侍の気怠そうな顔が思い浮かぶ。
「ほら、審神者さんもさ、今日ぐらいは羽目を外しちゃお?」
「えぇ……? いや、私は……」
「別に浮気してるわけじゃないんだからさ。お酒を飲みに来ただけだって」
「それは、そうかもしれないけど」
 確かに彼女の言うことにも一理あるように思えた。ちょっと変わった店に飲みに来ただけ。ちらっと近侍の顔が思い浮かんだが、彼とは恋人でもなんでもないのだ。
 それならば、少しぐらいは羽目を外しても許されるのではないか?
 そして店員に勧められるがまま歓待を受けた結果、自分は近侍の不興を大いに買ってこのように詰められている。


「……触った、っていったって腕だけですし、やましいことなんてしてないです……」
「やましいこと、ねぇ。まあ主はんが嘘をつくつもりがなかった、というのはわかりましたわ。せやけど嫁入り前の娘さんがどこぞの馬の骨ともしれん男をべたべたべたべたと――」
 最初こそ明石の非難をしおらしく聞いていたものの、だんだんもやもやとしたわだかまりが胸の中に広がってきた。さっきから下手に出ていたけれど、あんまりじゃないか。店員の腕を触った程度でどうしてここまで言われなければならないのか。
 審神者は反論を試みた。
「だって腕をちょっと触っただけですよ」
「……。せやからそれがアカン言うてるんでしょうが」
「おかしくないですか? 彼氏がいるんなら百歩譲って怒られるのもわかるんですけど、私、独身で彼氏もいないのに。そんなの自由じゃないですか」
 どうやら反論を想定していなかったらしく、明石は一瞬押し黙った。
「……自分は近侍なんで。主はんがおかしなことしてたら止めんとあきまへんなぁ」
「業務ならともかくプライベートまで口出しするのはおかしいじゃないですか」
「主はんがいかがわしい店に通うのを容認しろとでも仰るんです?」
「ちが、そうじゃないけど、でも」
 やましいところを突かれて審神者は怯んだ。まるで言外にはしたない女だと言われているようだった。
「そないなお店でオトコを買い漁るようなお人やとは思いまへんでしたわぁ」
 まるで追い打ちをかけるように彼は言い放ち、じわりと審神者の瞳に涙がにじんだ。
 自分は審神者として近侍といい関係を築くために気を遣ってきたはずだった。ようやく仕事上の信頼関係を感じるところまでこぎつけて、それ以上の気持ちは心の底に押し留めてきた。今ここで築き上げた関係を崩すわけにはいかない、という理性が何よりも勝った。
 だが隣で仕事をしていると、彼の大胆に開いた胸元がいやでも目に入る。ほっそりとした指に触れたいと思ってしまう。彼が修行に行き、極になってからはその男ぶりも上がった。初の頃に比べれば距離も近くなったような気もするし、審神者のために心を砕く発言も増えた。近くにいるだけでドキドキしてしまうのだ。
 その不純な気持ちを他所で発散した結果、こうやって近侍から責められている。あまりにも理不尽な仕打ちだった。
「……だって近侍をべたべた触るわけにはいかないじゃないですか!」
「触ったらええやないですか。ほら」
 審神者がやけになって叫ぶと、あっさりと彼は言い放ち、ぐい、と露わになった胸元が目の前まで近づいてくる。一見華奢な体つきのようでいて、その実うっすらと筋肉がついた胸板。普段は絶対に触ることも許されないような近侍の胸板が鼻先に突きつけられ、審神者の我慢の限界を迎えた。
「せ……」
「せ?」
「せくはら……!」
「なんでや!」
 審神者は耐えきれず泣き出した。明石はツッコむが、審神者が泣き出したのを間の当たりにして態度を一変させ、決まり悪そうに様子を伺ってくる。
「ちょ、主はん……? なんや自分が悪もんみたいやないですか」
 落ち着かせようと審神者の頭に手が伸びるが、セクハラと言われてしまった以上、触れるわけにもいかず宙をさまよう。べそべそする審神者を目の前にして、気まずそうに苦笑いを浮かべ、自らの前髪に触れる。



 その時、すっと鞘つきの刀身が二人の間に割って入ってきた。どうやらずっと話を聞いていたらしく、本体を突きつけた山姥切国広がぼそぼそと口を開く。
「そこまでだ。俺は男女関係の機微はわからないが、それでもこれは真っ当なやりとりじゃないだろう」
「いや、ちゃいますって……。自分は近侍として主はんを諌めようと思ただけで」
 突然入ってきた山姥切に明石は困惑を隠せないが、ひとまず反論を試みる。
 恐らく審神者が帰宅した時から様子を窺っていたのだろう。審神者への対応に手一杯で気づけなかったことに内心舌打ちする。
「近侍として? 寝言は寝て言え。口説くなら正面から口説くんだな」
「ちょっと待ってくださいよ……」
 近侍としての建前をばっさりと切り捨てられて明石は撃沈する。いかがわしいお店に行くことの是非はともかくとして、近侍をべたべたと触ることを迫るのは確かに主従としての一線を越えていたからだ。
「ぐすん……まんばちゃん……せくはらぁ……」
 審神者はべそをかきながら山姥切に助けを求めている。近侍として、立つ瀬がなかった。
「いやいや……主はん、あんまりですわ……」
 だいたい、審神者がいけないのだ。女同士の飲み会というから黙って送り出したけれど、ふわふわ酔っぱらいながら男の香水の臭いを漂わせて帰ってくるとは思わないじゃないか。
 なんだかとても腹が立った。それであの凶行である。カッとなって勢いで迫り、言い合いになり、その結果泣かせてしまった。勇み足だったと後悔するがもう遅い。
 明石自身は近侍として審神者といい関係を築いてきたと思っていた。適当に冗談を言い、ぐだぐだと愚痴をこぼしながら仕事をこなし、柄ではないが少なくとも当たり障りなく本丸運営に関わってきたのではないかと自負していた。
 審神者が自分に好意を抱いているのには気づいていた。しかし隙を見せつけても、彼女は一向に触れてきたり言い寄ってくる様子すらない。あくまでも審神者と近侍という距離感を維持している彼女を見て、まさか内心は片思いをこじらせていたなんて思いもよらなかったのだ。
 この関係にあぐらをかいて悠長に構えていたことは否定できない。
 その結果、審神者がひたすら我慢を重ね、飲み会で羽目を外すような事態となってしまったのである。
「落ち着いたか」
「うん……」
 山姥切が審神者を介抱している様を、明石は傍から眺めるしかない。
 大変気まずかった。山姥切からは冷たい視線を向けられているし、主は落ち着いたものの、布の端をきゅっと握ったままこちらを見ようともしない。これからどんな顔をして接すればいいのだろうか。もしかしたら近侍を降ろされてしまうかもしれない。
 日頃「働かない」を標榜する明石にとって近侍を降ろされることは歓迎すべきことなのかもしれない。しかし、問題を起こして降ろされたとあっては、体裁が悪いのである。
「あー……主はん? その〜……」
 素直に謝ることもできず、明石は前髪をいじりながらごにょごにょと言葉を濁した。
 意を決して一歩近づくと、彼の布にしがみつく手に力がこもるのが見て取れた。と同時に、山姥切が二人の間に立ちはだかる。まるで審神者を守る門番のような仕草に、明石は思わず顔をしかめる。
「……主は俺が送っていく。今日のところは頭を冷やすんだな」
 初期刀の冷たい視線に、明石はなすすべもなく立ち尽くすしかなかった。




***



 翌日。開口一番に審神者は頭を下げて謝った。
「昨日はすみませんでした!」
「……ああ、いや、自分も言い過ぎました」
 審神者の先制に面食らったのか、明石は視線を外しながらごにょごにょと返す。
 気まずさは残るけれど、体裁は取り繕った。
 昨晩はずっと布団の中で悪い想像を思い浮かべ、審神者は悲壮な覚悟を決めた。嫌われても仕方がない。だからせめて審神者として地道に任務に取り組み、仕事上の関係として信頼回復に務める他ない、と。
 今の自分はどこぞの馬の骨ともしれないオトコを買い漁る女だ。そのように非難されたことを思い出し、傷口がじわりと広がっていく。好きな人にそのような罵倒をされるのは何より堪える。
 けれど、明石はこうも言った。
 ――触ったらええやないですか
 言い合いの中飛び出した言葉がざらりと感情をもって心をかき乱していく。
 触れるわけがないのだと思っていた。自分は恋仲でもなんでもない、ただの審神者と近侍の関係に過ぎないのだ。
 日課の書類を確認しながらちらりと近侍を見やると、線が細いながらも意外としっかりした腕が目に入った。いつも視界に入れないよう目をそらしていた胸元を意識してしまう。すらりとした指先につい目がいってしまう。頭の中で妄想が積み上がっていく。そんな資格などないのに。
 近侍は所在なげに髪をいじくったりしていたけれど、すぐこちらの視線に気づいたようだった。
「何ですの」
「いえ、スイマセン……」
 審神者が反射的に視線をそらすと、明石は苦笑した。
「いやいや、何を謝ってんですか」
「いや、えっと。あはは」
 またしてもスイマセンと口に出そうになり、ぐっと飲み込む。
 少なくともあからさまに嫌われてはいないようだった。思ったより和やかな雰囲気でやりとりができて拍子抜けする。
 だからこんな風に無造作に触れてくるなんて、予想もしていなかった。
「昨日のお酒が残ってはるんちゃいます?」
「……は」
 まるで具合を確かめるかのように、軽く額に触れてきた。呆然としていると、おどけたように両手を挙げてみせた。
「……おっと。またセクハラや言われたらかないまへんからなあ」
「いえ、言わないですよ……」
 まさか触られるとは思っていなかったけれど。急に距離が近くなって混乱する。
 明石は右手の長手袋を外しながら、気負いなく言った。
「ま、触りたくなったらいつでもええですよ」
「ごほっ」
 単刀直入に切り込まれて審神者は咳き込んだ。
 朝一番に頭を下げて、自分の中で手打ちにしたつもりだった。まさかその話を引っ張り続けるつもりなのか。見逃してはくれないのか。
「いや、大丈夫です……」
 意図的に目をそらすが、頭の中はその話題でいっぱいだった。とりあえず目の前の仕事を広げてみるが全く頭に入ってこない。
「おーおー。給仕のにいさんはべたべた触っても、自分のことは触れてくれへんのやなあ」
 やましいところを突かれて審神者は撃沈する。座卓に突っ伏して震えたまま顔を上げることができない。
「その節は本当に……。うう、もう止めてぇ……」
 酩酊中ならまだしも、お酒も抜けたしらふの頭で触りに行くという度胸は審神者にはなかった。ましてやれっきとした任務中である。それこそセクハラではないのか。なんなのか。
「信じてもらえないかもしれないんですけど、私は刀剣男士の皆さんを大切に思ってて……特に近侍の明石さんとは、信頼関係を、築けたらいいなって、思ってたんですよぉ……」
 うめきながら歯の浮くような台詞を絞り出す。日頃自分に言い聞かせていた綺麗な建前をこんなところで披露する羽目になるだなんて思ってもいなかったが、しかしそんな輩が妙な飲み屋に通っただなんて知られたら全く説得力がない。いったい何を言い訳しているのか。言いながら顔が紅張していく。
「うん、わかりましたわ」
 ちとからかいすぎました、と明石は意外にもすぐにおとなしくなった。
「うんまあ、せやろなぁ。主はんは真面目なええ子やもんなぁ」
「どういう意味ですか」
「そのままの意味ですわ」
 揶揄するような響きに聞こえたものの、昨晩の評価のままよりはだいぶマシだったので口をつぐんだ。真面目な堅物、それで上等ではないか。

 その後はぽつぽつと世間話をしながら日課をこなした。少々遠慮しあうような距離感だったり、意味深な視線を感じたりはしたものの、概ね無難に任務をこなすことができたはずだ。
 夕刻、ようやくきりのいいところまで仕事を終えたところで、彼は何を思ったか手を差し出してきた。
「主はん、握手しましょ。握手ならええ?」
 審神者は戸惑いながらも言われるがまま手を握る。線が細いながらもごつごつした男の人の手。きれいな手だった。ひんやりとしているが人間の手とたいして変わらない。
 仲直りの握手なのかなとぼんやり考えていたら、感触を確かめるように何度か握りしめてきた。
「考えたんですけど、主はんが余所見せんようにするのも近侍の務めやと思うんですわ」
「……うん?」
 彼はそう言い、ひと一人ぶんのスペースを詰め座り直した。


「……で?」
 山姥切が言葉少なに相槌を打つ。
 それから数日後。審神者は堀川派の部屋に駆け込んでいた。山姥切は表情こそ変わらないが口数がどんどん減っている。何の実にもならない愚痴を聞かされているからだ。
「もう大変なんだよ! 手を握ってきたり、なんか座る距離が近いし、いい匂いするし、挙句の果てには暑いとか言いながらジャケットを脱ぎだすしさぁ……! まさかジャケットの下がノースリーブなんて聞いてない! もう無理、ほんと無理」
「俺はいったい何を聞かされているんだ……」
 審神者の熱弁に山姥切国広はぼやく。
「惚気ですね」
「惚気じゃないぃ……」
 同室の堀川国広が雑な合いの手を入れてくるから、審神者はべそをかきながら首を振る。
 何しろ必死なのだ。今まで表面上は平和な関係を築けていたと思っていたのに、あの日から審神者と近侍の関係は一変した。
 なんとなく座る距離が近い。書類を覗き込む距離が近い。この距離だとあくまで自然に肩が触れたりすることもあるだろう。そんな距離だ。
 審神者はそのたびにドキドキする気持ちを抑えながら平常心を装っていたが、そのうちに明石の大胆な行動が増えてきたのだ。
 鍛刀に行こうと立ち上がると、明石が手を差し出してきた。
「どうしたの?」
「足腰がしびれてもうて立たれへん」
「えぇ? もう、しょうがないなぁ」
 引っ張りあげてやる。大の男を引っ張りげたにしては手応えが軽く、スッと立ち上がった。手を繋ぐ口実に使われたのだと気づき、じわじわ頬が赤くなる。
 疲れた、とぼやいたら手のひらを優しく包み込んでマッサージを施してくれたこともある。
 休憩中にだらける姿も増えた。ジャケットを脱いでくつろいでいて、腕が大胆に露出している。長手甲がどうなっているのか気になったけれど「気になるなら外してみてもええですよ」と言われたので追及するのを止めた。
 昼食の後は執務室で昼寝を始め、隙だらけの姿で寝こけている。必然的に審神者が肩を揺り動かして起こす羽目になる。寝起きの表情はぽやぽやしていて大変かわいらしいが、大変心臓に悪い。
 困ったことに、全部あくまで健全の範囲内なのだ。手を握るのだって、上着を脱ぐのだって、自意識過剰だと言われてしまえば拒否しにくい。困り果てて山姥切に助けを求めてきたのだ。


「……だから近侍を変えるかと言っただろう。そんなに嫌なら俺が切るが、それでいいのか」
「うう……。それは、だって、気まずいまま変えるのは嫌だったし、ちゃんと話をしておきたかったんだよぉ……」
 結果的に和解までこぎつけたのはいいものの、明石の妙なやる気に火をつけてしまった。
 山姥切はすっかり投げやりになっていた。どうせ審神者はどの解決策にも同意しないだろう、とあたりをつける。そしてそれは見事に的中した。
「……嫌じゃないの。だから困ってるの!」
「これが惚気ってやつか。くっ、俺が写しなばかりに……!」
「あーあ、主さんってば。恋は人を駄目にするって本当なんですね。あと写しは関係ないよ兄弟」
 堀川派の二人に見放され、審神者は捨てられた子犬のようにすがりつく。
 本気で困っているのに、彼らはそう受け取らないようだった。それどころか惚気だと言い切られて審神者は撃沈する。
「二人とも見捨てないでぇ……」
「俺はこの件に関しては手を引く。さっさとくっつけばいいだろう」
「それができたら苦労してないんだよぉ」
 何やらこじれまくっているが、傍目から見れば思い合っている二人だ。何も難しいことはないはずだが、いったい何をためらっているのか。
「そりゃ仲良くなれたらいいなって思ってたけど……でも、だって、審神者として任務中にべたべたするような真似は、よろしくないのではないでしょうか……」
 などと往生際の悪い言い訳を繰り返す審神者に、山姥切は冷たく言い放つ。
「じゃあそう言えばいいだろう。きっぱりと拒否できない時点でなんの説得力もないな」
「うぇー……そうだけど……」

 などと解決する気のない堂々巡りの話を続けていると、廊下から声をかけられた。
「おやおや、どこで油を売ってるかと思ったら。サボるのは自分の専売特許やと思ってたんやけどなあ」
「ぎゃあ」
 渦中の明石国行であった。まさか探しに来るとは思わなかったので審神者は情けない悲鳴を上げてしまった。
「すいません、すぐ行きます」
「かまへんかまへん。自分もゆっくり休めますし。ははは」
 わざわざ探しに来ておいてこの言い分である。これは相当だな、と山姥切は堀川に目配せをする。聡い兄弟は気づいたようで微笑み返してきたが、審神者は気づいていないようだった。
「ごめん、本当にありがと」
 バタバタと立ち上がりながら審神者は二人にに言った。
「ああ。……ちゃんと話し合うんだな」
「何ですのん」
 山姥切の言葉に聞き捨てならないと明石が反応する。助け舟を出され、審神者が意を決して口を開いた。
「……ちょっと聞いていい?」
「うん」
「最近妙に距離が近かったり、手を触ってきたりするのって……わざと?」
「えぇ、そんな風に思ってたん?」
 質問に質問で返されて審神者は口をつぐむ。やっぱり自意識過剰だったのでは、と頭をよぎったところで明石が微笑んだ。
「まぁ手遊びとかは主はんの気が紛れるかなと思いまして。嫌やったら止めます」
「いや、嫌じゃないんですけど、任務中はちょっと困ってしまうというか……恥ずかしいし」
 思い出しながら審神者は顔を赤らめる。明石が近侍として心を砕いてくれているのはわかった。しかし距離を詰め、触れてくるたびにドキドキして任務どころではなくなるのだ。けれどきっぱりと拒絶したいわけではない。審神者としての建前と、嫌じゃないという下心がせめぎ合った結果、こんな中途半端な物言いになった。
 明石は例によって感情の読み取れない微笑を浮かべながら黙って聞いていたが、やおら口を開いた。
「『任務中は』」
「……ん?」
「ほな任務時間外ならええってことかなあ」
「えっ、あっ、はい……? そうくる……?」
「……わかりました。ほな今晩、お部屋に伺います」
 審神者は己の失策を悟り、真っ赤になって慌てた。任務時間外のプライベートな時間で、ましてや夜。いったい何をされてしまうのだろうか。
「主はん、自分と仲良くしたいと言ってたでしょう。いやー自分も主はんと仲良ぉしたいな、と思てたんですわ」
「わ、わああぁ……」
 聞きようによっては健全とも夜のお誘いともとれる台詞。この文脈で健全な方を想像しろという方が無理だった。完全に固まる審神者を尻目に、明石は満足気に笑顔を見せた。
「おやおや、何を想像してはるんやろなぁ」
「ち、違……」
 楽しそうにからかう明石の傍らで山姥切は話が終わったとばかりにそっぽを向き、堀川は解決したと微笑んだ。助け舟を出すまでもない。それこそ、野暮ってやつだ。
「犬も食わないってやつですね」
 堀川がのんびりと言った。