「主はん、ぼーっとしてどないしましたん」
「うん」
「うん、やあらへんて。お加減よろしくないん?」
本丸の執務室。朝から長々しい出陣の指揮を終え、やっと帰還命令を下したところである。審神者の目はさっきからうつろで、返事もどこか上の空だった。仕方なく明石はとっておきの台詞を口にする。
「主はん、ご飯にします? それともお風呂にします?」
「うん……」
これを言うとだいたい「今仕事中なんだけど」と冷静なツッコミが入るはずだった。しかし今日は上の空の返事が返ってくるばかり。
「……こらあかん」
と明石はそっと呟くと、審神者を横抱きに抱え上げた。いわゆる「お姫様抱っこ」の姿勢である。
審神者の顔色は既に真っ白で、苦しそうに肩で呼吸をするばかり。普段はやらないような横抱きにすら何の反応も見せないところをみると、どうやら相当に参っているらしい。
審神者は定期的にこのような状態に陥る。いわゆる女の不調というやつなのだろう。しかし審神者はあまり自分から不調を口にしない。やはり男所帯だから言いにくいのだろうか。
だから、誰かが見てやらなければならない。それは大抵近侍である自分の役目であった。
「主はん、今日は仕事終わりにしましょ。ゆーっくり休み」
「うん……」
そうして明石は、審神者を私室まで運び入れた。布団を敷き、審神者を横たえて、自らも一緒に横になる。
布団の隅をトントンと叩いてやる。寝かしつけは得意だった。
「明石……さん」
「どないしました」
ぼんやりとした審神者と視線が合い、手が止まる。彼女はそろそろと手を伸ばしてきて、そっと明石に触れてきた。彼女は日頃から甘えてくることがほとんどないため、これは大変貴重な甘えモードだった。体の奥がきゅっとして頬が緩みそうになる。
審神者のまぶたがだんだん重くなってきて、しばらくぱちぱちと瞬きをした後、瞳を閉じて静かな寝息をたて始めた。
「今日は大寒ですし。あったかくしておやすみくださいなぁ……」
明石はしばらく彼女の寝顔を眺めていた。薄く色づいた唇に手を伸ばそうとして、止める。やがて大きなあくびをひとつすると眼鏡を外し、瞳を閉じた。
「うん……? 寝てた……の……?」
夕刻。そんなつぶやきが隣から聞こえてきて、明石はうっすらとまぶたを上げる。
やがて審神者と視線が合い、彼女は大声を上げた。
「なっ……あああああ!?」
「なんですのん……騒がしいわあ……」
明石は枕元の眼鏡を探り当て、むくりと起き上がる。
「いやいやいや、なんで布団に!?」
「主はんが離してくれへんかったから、つい一緒に寝てしまいましたわ」
半分嘘である。審神者が触れてきたのは本当、だがそれくらい簡単に引き剥がすことはできたのだ。
「それは……いや、でもさ……」
審神者はうっと言葉に詰まって、もごもごとつぶやく。
「主はん、何も覚えてへんの?」
「う、うん……あんまり……」
明石は口をへの字に曲げる。自らの主が定期的に意識を喪失するというのは大変に危うい状態であった。だが、ある意味それは好都合だった。
「主はん、自分ひとりの体ちゃいますから、大事にしてください」
「は……?」
愕然とする審神者に、意味深な笑みひとつくれてやる。
どういう意味もなにも、自分を含め数多の刀剣男士は皆審神者頼りだから倒れられたら困るのだ。だが、当の本人は違う意味で捉えたらしく、顔を赤らめて動揺し、着衣の乱れまで確認する始末だった。いくら自分でも病人を襲うような真似はするわけがないが、せっかくだから誤解させたままにしておく。
「主はんのややこは、きっと珠のようにかいらしいんやろなあ」
「ふぇ……」
「いやー楽しみですなぁー」
「ねえ、まさか……本当に何かした?」
彼女は赤くなったかと思いきや青ざめて、頬を手で隠しながら固まっていた。どうやらいじめすぎたらしい。
「まさかまさか。一般論を言っただけですけど」
何もしてへんよ。そう言った途端、平手が飛んできた。大した威力はないが、パチンと派手な音がした。
「いったあ……!」
「もう!」
「ははは。すんまへん」
「なにそれ、全然謝ってない」
「まあまあ……せっかくやから、もう少し休み」
明石はそう言うと審神者の体を布団に押しつけ、髪をゆっくりと撫でつけた。審神者は悔しそうな表情を浮かべていたが、まだ本調子ではないらしく、素直に体を横たえた。
普段は働き詰めでちっとも甘えて来ないのだから、たまにはこんな時間があったっていいではないだろうか。彼女の頬を撫でてやると、くすぐったそうに目を細めた。
今のところはゆっくり休み、主はん。
「まぁ……そのうち、な」
何ともなしにつぶやいた言葉なのだけれども、蚊の鳴くような声で「うん」と言ったのが聞こえた気がした。