クマになりたい
今日も机の上には書類仕事がたまっている。それをやっつけようと机に向かうが気が散って遅々として進まない。
その原因は近侍にあった。
「ふっかふかですなぁ」
本日の近侍、明石国行の膝の上には私のぬいぐるみ。それも赤ちゃんの頃からずっと一緒にいて、大切にしていたクマのぬいぐるみだった。今となってはだいぶ汚れが目立ち、毛もほつれ、年季が入ってきている。彼はそれを胡坐の上に乗せぎゅっと抱きしめ、撫でくり回していた。なんだかとても面白くない。
「ちょっとそれ、私のクマちゃんなんですけど」
「ええですやん減るもんでなし」
「そういう問題じゃない! 返して!」
手を伸ばすと、彼はクマを手の届かぬ方向へひょいと隠した。
「……あー。残念ながらまだ返せませんなあ」
「なんでよ」
「まーだクマさんと内緒のお話が残ってますしなあ」
「何それ……」
「な、ええやろ? 大事にしますから」
「あげないからね!? ちゃんと返してよ」
意味不明な言い訳だけど追及するのは諦めた。残念ながら、そこで強引に割って入って引きはがせるほど私達の仲は進んでないのだ。クマのぬいぐるみみたいに、抱きしめられたり触れられたりだなんて夢のまた夢。私は最初から蚊帳の外。
ため息をついて仕事に戻る。あーあ、私もクマちゃんになれたらなあ。
その晩、いつものようにクマちゃんを枕元にセットする。クマちゃんからはお日さまのようななんともいえない匂いがして落ち着くのだけれど、今日は様子が違った。
これは、明石の匂いだ。そう認識してしまうともう駄目だった。まるで明石が枕元にいるかのような妙な気分になってしまい、私は眠りに落ちるまでおかしな妄想と戦う羽目になった。
おまけに明石の膝の上に乗せられて抱きしめられる妙な夢を見る羽目になってしまった。
どうしよう、もう顔を合わせられないよ。
*
執務室の隅で出迎えたのは、主はんが赤子の頃から大切にしていたというクマのぬいぐるみだった。愛らしい顔をして、こちらをじっと警戒しているのがわかる。自分はそれを笑顔でかわして、ひょいと胡坐へ抱え上げた。
「これが噂のクマさんですか」
近侍を務めた連中の中で密かに話題になったのがこのクマの存在だった。あれは主を守っている、僕らに不審な動きがないか監視している――と言い出したのは誰だったか。たかだか数十年、付喪としてはまだひょっこだとたかをくくっていたけれど、なかなか堂に入ったものだった。これは思ったより手がかかりますなあ、と内心舌打ちをする。
ぬいぐるみからは主はんの匂いがする。それとともに記憶の奔流が、赤子の頃からずっと一緒にいたという誇りがどっと押し寄せてきてくらくらした。
おまけに主はんからの視線が痛い。見せつけるようにぎゅうっと抱きしめると、「私のクマちゃんなんですけど」と不機嫌な声が飛んできた。
さすがに嫉妬してしまいますなあ。自分は「私の」とか呼ばれたことあらへん。これでも自分、主はんの刀剣なんですけど? ことあるごとにそれとなくアピールしているけど、どうもうまくいかない。恐らくこのぬいぐるみがそこに割って入ってしまうのだ。なら、懐柔するしかあるまい。
「な、ええやろ? 大事にしますから」
クマに呼びかけるも返事はない。主はんからは「あげないからね」と頓珍漢な返事が返ってきたが、まあそう捉えますわな。
別に遊んでいるわけではない。まだ意識が芽生える前の付喪は説得が難しいところがあるのだ。そろそろその役目、自分に譲ってくれてもええと思うんですけどなあ。こうしてお願いをしているが、なかなか首を縦に振らない。まったく、主はん同様強情な性格をしてはりますなあ。
自分がクマになれたら、主はんの寝顔を一日中でも眺めていられますのに。
いや、眺めているだけで済むんやろか。きっと触れたくなってしまう。
ああ、人の身というものは時に不便なものですなあ。