審神者が執務室で仕事を始める準備をしていると、「へぇおはようございますぅ」とのんびりした声とともに明石国行が現れた。
「おはよう。珍しい人が来た……」
それが正直な感想だった。この本丸の近侍は日替わりで志願制。志願した刀剣の中から毎週何かを競って近侍当番を決めているらしい。らしい、というのは審神者はその現場にノータッチだからだ。近侍をめぐる争いが勃発した結果、面倒になった審神者は彼らに丸投げしてしまった。それ以降、彼らは適度に争いながらうまくやっているらしい。
「くじ引きで当ててしまいましてん。いやー参りましたわぁ」
つゆほども参っていない口調で彼はのたまった。
「くじ引き? そういうのは物吉君が強そうだけど」
「物吉はんは明日の出番ですなぁ」
「そっか。……んー、明石さんか。近侍経験そんなになかったよね? どうしようかな……」
審神者はしばらく考えたあげく、書類整理を頼むことにした。
「じゃあここ数日分の書類があるので、日付順、内容別にわけてファイルに綴じてください。わからなかったら聞いてください」
「はぁー。自分に働け、言いますか? 参りましたなぁー」
「何しに来たんだ……」
文句を言いつつも渋々手を動かし始めた明石にひとまず安心しながら、審神者はイヤホンをつける。そしてお気に入りの音楽を大音量で流しながら、作業に没頭しはじめた。
明石国行は与えられた作業をゆるゆるとこなしながら、審神者を眺める。
彼女は特定の懇意の刀を作らない。雑談には多少応じるが、それだけ。自らのことは進んで話さない。刀達の中に入って行こうともしない。刀達から多少の不満の声は聞こえるが、自分はまあそんなものなのかな、と思う。
審神者の耳を塞いでいる代物をまじまじと見る。あれは「音楽」を聴いているのだ、と周りの刀剣男士から事前に情報は得ていた。「いやほん」なる面妖なからくりから音が出て、審神者はそれに心を奪われているのだと。笛と太鼓で奏でるような音とは違うらしく、聞かされたことがある者は「頭が割れるような忌々しい騒音だった」とぼやいていた。
彼女は時折体を小刻みに動かし、指で机をトトンと叩く。そして思いついたようにすらすらと筆を動かしている。誰かが言っていた忌々しい騒音とその姿が結びつかない。目の前の彼女は実に楽しそうに体を揺らしながら、時折口を開いた。だが聞こえてくるはずの声は聞こえてこず、ただ意味ありげな形に口を動かすのみだった。恐らく、想像の中で歌を歌っているのだろう。それを聞けないのが惜しいな、と思う。
そうこうしているうちに作業が終了し、明石はしばし彼女を眺めた後、ごろりと横になった。せっかく気持ちよく歌っているのだ、わざわざそれを遮ることはない。それに、作業に集中する審神者の横顔をいくらでも眺めていられる。近侍の特権だった。
ずいぶん作業がはかどったと仕事の手を止め、思い出したように近侍を見やると、明石はゆったりと横たわっていた。審神者がイヤホンを外すと、待ち構えていたように言った。
「終わりましたで」
恐らくとっくの昔に作業を終えているのだろう、書類の束が整然と並べられている。
「終わったなら言ってよ……。声掛けて来なかったのは君が初めてだよ」
明石は悪びれることなく答える。
「なんや主はん、気持ちよぉ歌ってましたから」
「うっそ。歌ってた?」
「まあ冗談ですけどな?」
「その冗談いる?」
審神者は口を押さえたまま明石を軽く睨みつける。一瞬でも信じてしまったことが少し恥ずかしい。それで明石が声掛けをしなかったことは有耶無耶になった。
「はぁ、それが噂の『いやほん』とやらですか。そこから何やら面妖な音が聞こえてくると」
「面妖って……間違ってはいないけどさ」
どうやらろくに近侍をしたこともない明石にも話が行き渡っているようだった。
頭の奥がじわりと痛む。時折、こういう抗いがたいギャップを感じることがある。それは言葉や生活習慣、価値観などの端々に表れ、彼らは悠久の時を過ごしてきた刀剣で、自分は一介の人間に過ぎないのだと痛烈に自覚させられるのだ。
この本丸に人間は審神者一人だけ。その事実が彼らとの壁を余計に厚くさせる。
明石な何の気なしに言った。
「どないな音が聞こえるんでっしゃろなあ」
「えっ、興味あるの」
意外だった。このような刀剣がこちらに興味を示すとは思わなかったのだ。
「聞かないほうがいいんじゃないかなあ」
審神者は渋った。やはり自分の好きな音楽に興味を持ってくれるのは嬉しい、と最初は喜々として勧めたのだ。だが、程度の差はあるものの、どの刀剣も閉口してそっとイヤホンを返してくると審神者はがっかりした。「このようなものを好んで聞く気がしれない」とあけすけに言われたことすらある。それからは逃げるように一人で没頭するようになった。
確かに彼らからすれば聞きにくい音かもしれない。だが、自分の好きな物を拒絶されて、有り体に言えば少し傷ついたのだ。
「まあ無理にとは言いまへんけど」
「いいよ、わかった。せっかく興味持ってくれたんだし」
正直、その傷は完全に癒えたとは言えない。だが、明石の柔らかい物腰に押されて審神者はイヤホンを渡した。つけ方に戸惑っていたので向きを確認して再度差し出す。片耳に差し入れたところで、明石の体がぐらりとのけぞるのがわかった。彼はしばらく体を強張らせていたが、しばらくすると耐えかねたように自分でイヤホンを抜き取った。
「これはこれは……せやなぁ……思うた以上の衝撃ですなあ……」
やっぱりね、と審神者は嘆息する。
千九百年代以前と以後では人々の暮らしは全く変わってしまった。刀剣男士の息づいていた時代と審神者の生まれ育った時代では違うのだ。この音楽ひとつとってもそうだ。録音技術が発達し、電子音楽の登場により、より刺激を求めて、人々の好みは先鋭化していった。そして審神者もそれに馴染み、魅せられている者の一人だった。
数百年、刀によっては千年以上もの隔たりがあるのだ。理解してもらえないのもしかたない。そう思いながらイヤホンを受け取る。手の中でじゃら、と無機質な音が鳴った。
明石は彼女の失望した視線にさらされていた。
いやほんを耳に挿した瞬間、雷に打たれたような轟音が流れてきた。それでも、彼女の歌の痕跡を探そうとしたが、自分には見つけることはできなかった。
審神者が歌っていた歌はどのようなものだったか。明石は記憶の糸をたどる。やる気がないのが信条だが、少しばかりは本気を出すことにしよう。歌は歌ったことがないが、人間と同じように顕現した体だ。恐らく歌うことはできるだろう。
「んー……あー、あーあー」
探りながら声を出すと、興味を失って仕事に戻ろうとした審神者が振り返り、不思議そうな顔で見つめてきた。
「せかい、は」
明石は歌った。歌と言えるほどの出来栄えではなかったかもしれない。明石の体は戦に出ている時とはまた別の胸の高鳴りに支配されていた。恐らくこれが緊張する、というやつなのだろう。審神者の呆然とした視線にぶつかると、また顔面が熱くなる。
世界の破滅と、そこで必死に生きる二人の歌。審神者がよく口ずさんでいる旋律を、明石はたどたどしくなぞる。もちろん歌詞が完璧なはずはなく、あれやら〜、これやら〜、〜ですのん、などと適当に補完されて、破滅的で刹那的な歌は大変ほのぼのした代物に変化した。
審神者といえば、そんな明石をぽかんとした顔で眺めていた。やがて笑っていいのか、照れているのか、そんな感情がないまぜになった表情に変化していく。そして一節が終わった瞬間、審神者は真正面に陣取りかぶりついた。
「……なんで?」
「なかなかのもん、ですやろ?」
「え? え? なんで知ってるの? どうして?」
彼女は明石の襟を掴んだまま、しばらく唸り声をあげる。そして小声で「まさか」と言ったのを拾い、あっさりと種明かしした。
「いっつも湯浴み中に気持ちよぉく歌ってますやんか。外まで丸聞こえやで」
「うそぉ……」
審神者は頭を抱えてうずくまるが、明石にはその理由がよくわからない。
「別に隠す必要ないと思いますけど。ええお声やと思いますけどなぁ」
「そういう問題じゃない! 勝手に聞くなんて……」
そこまで言いかけて、審神者は動きを止めた。
「なんで風呂場に来てるの!? まさか」
「嫌ですわぁ。まさか覗きを疑ってはります? 鶴丸はんを追っ払ったの、感謝して欲しいくらいですのに」
「鶴丸!? 初耳なんですけど!」
「そらまあ初めて言いましたからなぁ」
「なにそれ……」
実のところ鶴丸を見かけたのは一回きりなのだが、嘘は言っていない。そして自分がたまたま歌声を耳にし、歌を覚えてしまうほど通い詰めていることも気づかれていないようだった。
明石はうずくまっている審神者に向かって声をかける。
「自分、この歌まだ覚えてへんねん。せやから主はん、歌ってくれまへんやろか」
「え……?」
審神者は顔をあげた。すぐさま懐を漁り、いやほんを取り出す。
「あの歌だったらここに……」
審神者が取り出したいやほんを明石は握りつぶし、首を振った。
「主はんのええお声で聞きたいわぁ」
「わ、私、そんな、人前で歌うなんてそんな。歌ったことなんてないし」
「いやいや。自分は人やありませんから、気楽にしてもろてええですよ。玉鋼か何かやと思ってもらえれば」
「そういう問題じゃない……」
審神者は赤面して必死に首を振る。やはり無理なのだろうか、と諦めの心地でいたところ、審神者がゆっくりと息を吐いた。
「でも、そうだね。明石さんも歌ってくれたんだもんね」
「せやろ。初めてにしては上出来、ですやろ」
「……ありがとう。嬉しかった、とても。私の大好きな歌だったから」
ふわりと笑みを投げかけられて、明石は慌ててそっぽを向く。彼女はこんな風に笑うのだ。初めて見る顔に胸が熱くなった。
実のところ、明石が気まぐれに近侍争いに参加した理由がこれだった。時折浴室から漏れ聞こえる歌声を、間近で傾聴することができたなら。その音を唇から紡ぎ出す姿を臨むことができたなら。まさかこんなに早くに実現できるとは思っていなかったけれど。
彼女の聴いている音楽そのものは理解できなくとも、その口から紡ぎ出された歌を聴くのは心地よいものだった。そのような理解の仕方もあるのではないか。人と刀剣、歩んできた歴史は違えども、少しでも歩み寄ることができるのではないか。
審神者は目を閉じてゆっくりと息を吸った。やがて目が開き視線が合うと、照れたようにはにかんだ。
観客は自分一人。贅沢な時間の始まりだった。