来派の保護者

 目が覚めたら、黒の細い布地が視界に入った。それからその向こうには肌色。なんだか見覚えがある、とぼんやりした頭で考える。呼吸音とともにかすかに上下するそれを眺めながら、頭がほんのり温かかくて硬いものの上に乗せられていることに気づく。――腕だ。人の腕だ。
 ……と、いったところで審神者の頭は一気に覚醒する。
 この肌色は誰かの胸元だ。そして誰かの腕を枕にして審神者は眠っていた。目の前でクロスした特徴的な布地は明石国行のインナーだ、というところにたどり着くまでそう時間はかからなかった。そっと視線を上にあげると、長い前髪に隠れた寝顔が目に入る。眼鏡をしていない寝顔は幾分か幼く見えた。
 待って。待ってほしい。審神者は固まったまま大混乱に陥る。そもそも彼とは恋人でもなんでもない。恐る恐る自分の着衣を確認するが、乱されたりとかそういった形跡は一切なさそうだった。つまり、添い寝だ。いや安心することじゃない。添い寝でも十分におかしい。
 審神者は必死で眠る前の記憶をたどる。



 今日は焦っていて満足に刀装が作れなかった。そして刀装をつけ忘れ、出陣した部隊を引き返させる羽目になった。焦りは焦りを呼び、陣形の伝達をミスするという罪を犯した。帰ってきた刀剣たちにうまく言葉もかけられなかった。緊張すると彼らの顔も見れなくなる。
 初期刀の歌仙にはかなり手厳しく叱られたのだった。彼は不出来な審神者に根気よく兵法や隊の組み方、果てはお茶や着付けなどの作法までをしつけてくれる。審神者になってから慣れないことばかりで、普段はそれでも必死で食らいついていたのだが、とうとう参ってしまったのだ。何も言い返せず、かと言って泣き出せるほどの度胸もなく、ただ唇を噛み締めて肩を震わせる審神者に向かって歌仙はこう言い放った。
「今日は終いだ。少し頭を冷やしてきたらどうだい」
 そうして今日の任務は打ち切られた。

 そうして審神者はふらふらと人気のないところを求め、裏庭までやってきた。
 ――見捨てられた。
 審神者の中では、その言葉がぐるぐると回っていた。今までどんなに不出来でも見捨てず根気よく付き合ってくれた彼が、とうとう匙を投げた。不出来だからだ、と自らを責める。
 苔むした庭の飛び石をおぼつかない足取りで踏みしめていくと、声がかけられた。
「おやおや。迷子のおひいさんが泣いておられる。どないしはりましたん」
 明石国行であった。年季の入った縁側に片膝を立てた姿勢で座っている。まるで幼子をあやすようなゆったりした口調に審神者は戸惑った。
「私、迷子じゃない……」
 ましてや幼子のように扱われる年齢でもない。からかっているのだろうか。
「そうなん? 道に迷うてしもたような心細いお顔してはりますけど」
 その言葉にはっとする。自分は今何をしていた? 誰もいないからと気を抜いて、ひどい顔を見られてしまったではないか。
 ――君は仮にも将なんだから、不安そうな顔なんて見せるもんじゃない。士気に影響するだろう。
初期刀の言葉が頭をよぎる。
「あっ、いえ……。すみません、大丈夫です」
 審神者の返答に彼はなぜか困ったような顔をした。答えを間違えてしまったのだろうか。にわかに不安になるが、そのような感情を表にしてはいけないと口を結ぶ。
「うん、まあそれでもええけどな? ここ座り」
 促されて、彼の隣に遠慮がちに腰を下ろした。
「こうやってぼんやり庭でも眺めながら、頭を空っぽにするのもええもんでっしゃろ」
 そう言われて庭を見やる。この小さな裏庭はそこかしこに雑草が生え、大した手入れもされていない。風流を愛する歌仙は庭の手入れをよく行っているが、きっと歌仙もこの場所の存在を忘れているのだろう。そうしてまた歌仙のことを思い出し、審神者は口元を押さえてうつむく。頭を空っぽに、なんて駄目だできない。今日の失策と歌仙とのやり取りが呪いのようにぐるぐるとまとわりついている。そうだ、歌仙に追い出されたのだ。謝りに行かなければ。謝って、もう一度教えを請わなければ。この不出来な審神者を見捨てないでほしい、と。
「私、行かなきゃあ……」
「ちょお、落ち着きぃ。そないな顔してたら、なされることもなされんでしょ」
 立ち上がりかけた審神者の肩を明石が押さえつける。そして明石の手が審神者の背中に触れ、ゆっくりと撫でさすられた。温かい手だと、審神者は思った。
「――ええよ、我慢せんで」
「えっ……」
「泣きたいなら泣き。だーれも見てまへん」
 そう言われてほっとしたのか視界が滲む。刀剣の前で泣くまいと思っていたが、そう思った瞬間、もう駄目だった。涙腺が決壊し、滂沱のごとく涙が溢れてきた。みっともない嗚咽がこみ上げてきて、両の手で顔を塞いだ。
「うぇ……えぇぇっ……ぐすっ……」
 明石の指摘には覚えがあった。歌仙の顔色ばかりうかがって、手元がおぼつかなくなる。そうしてまた小さな失敗をし、叱られるのだ。そうしてどんどん萎縮していった結果、この有様だった。
 明石は審神者の背中を根気よく撫で、まるで幼子をあやすようにとんとんと優しく指で触れる。心の底に淀んでいた澱が剥がれ落ちるように涙がこぼれていく。そうして審神者はひたすら泣いた。
「かせん、は。私、歌仙、に、見捨てられて……。私は、駄目な審神者、だから」
 歌仙の厳しい目、呆れた顔、ため息。ひとつひとつがこの矮小な体をさらに小さくせしめていく。
「歌仙はんは、主はんに期待してるんやろなぁ」
「……え」
「知らんけどな?」
 審神者の視線を明石は軽くかわした。
「歌仙はんも初期刀としてやたら気張ってはりますからなぁ。ま、そのぶん自分らは楽させてもろてますけど」
 もう少し肩の力抜いても罰当たらんと思うで? なぁ? などと軽く笑う明石に虚を突かれる。そのようなこと、考えたこともなかった。いつも自分のことばかりで、歌仙が刀剣男士を取りまとめる立場として気負っていることに思い至らなかったのだ。
「私、歌仙に謝らないと……。それで、主として認めてもらえるよう頑張らないと」
「まあまあ。主はんも真面目に応えようとしてはりますけど、たまには気ぃ抜いて、わがまま言ってもええんやで」
「わがまま……?」
「そ。蛍丸も国俊も好き放題言うてますけど、元気やんなぁ。子供は元気が一番やで」
「子供って歳ではないですけど……」
 子供扱いされるほど頼りないのか、と一瞬思ったが、明石のその慈しみに似た言葉に自然と気が抜けていく。
 明石はとりとめなく話をした。彼らに昼飯のおかずを取られたこと。たまに泥だんごや虫なんかを持ってきて枕元に置きに来ること。昼寝を妨害されてうるさくてかなわないこと。それでこのあたりまで避難してきたのだと言った。
 それまで刀剣達とはあまり関わったことがなかった。短刀をはじめ人懐こく話しかけてくる刀もいたが、どうしていいかわからないのだ。歌仙に帝王学のようなものを教えられたこともあり、余計にどう接していいかわからなくなってしまった。将たる者、気軽に配下に笑いかけたりしてはいけないらしい。あとは一日中歌仙につきっきりで教えを請うて業務に当たっていた。だから刀剣男士がどのような生活をしているのか、審神者はよく知らないのだ。明石の話は新鮮なものばかりだった。
「少しは気が晴れました?」
「えっ、ええ……ありがとうございます」
 そして彼に付き添われて、審神者の私室まで戻って来たのだ。そのまま部屋の前で別れ、疲れて眠ってしまったはずだった。なぜ彼は部屋の中にいるのか。そして添い寝までしているのか。
 大混乱であった。
 そんなパニック状態の審神者をよそに、明石は身じろぎしてうっすらと目を開いた。そして審神者の姿を認めるとふわりと微笑みかけた。
「よう眠れました?」
「あっ、はい……」
「それはよござんしたなぁ」
 彼はそう言い、上体を起こして伸びをした。彼の動じなさに審神者もいくらか落ち着きを取り戻すも、頭の中にはハテナが浮かぶばかりだった。
「あの、どうして、なんで部屋にいるんですか?」
「え? 覚えてないん?」
「いえ……すみません」
「せやろなぁ。うなされてはったから、ちぃと寝かしつけに入らせてもらいましてん」
「ええ!? なに、何してるんですかっ」
「おかげでよぉく眠れましたやろ」
 審神者の抗議をものともせず明石は言う。確かによく眠れた気がする。うなされていたことも覚えていないほどに。
「それは、そうですけど……っ」
 どうも調子が狂う。明石の手にかかると、毒気を抜かれてしまうのだ。審神者は振り上げた拳の落としどころを見失っていた。
 彼は眼鏡をかけると、ピンを抜き髪をかきあげて適当に整え、再びピンを挿す。寝乱れていた髪はいつもの見慣れた頭になった。
「自分、来派の保護者みたいなもんですから。また何かありましたら胸貸してあげますさかい」
「えっ、胸っ」
 さっきまで至近距離で眠っていたことを思い出して、顔が熱くなる。
「冗談やって。……でも困ったことがあったら聞くのはホンマやで」

 それからたまに明石とは話をすることになった。といっても、そのほとんどが審神者が弱っている時で、のんびりした世間話を聞きながら心を落ち着けていくのが常であった。
 裏庭を歩いていくと、明石がぼんやりと縁側に腰掛け庭を眺めているのだ。いつしか裏寂れた庭の縁側が、秘密の逢瀬の場所となっていった。



 そんな折、出陣していた第一部隊が検非違使の襲撃に遭い、敗走した。特に酷いのが隊長として指揮をとっていた歌仙であった。折れないのが不思議なほどの重傷だった。
「かっ、歌仙っ! 歌仙……っ」
 審神者は動揺した。他の男士に支えられながら、かすかに命の灯火を繋ぎ止めているのみなのが見て取れ、刀剣たちの中で絶対的存在として君臨していた面影はそこにはなかった。
「主……言っただろう。そんな顔をしないでくれ、と。皆が不安になる」
 審神者の姿を認めると、歌仙は力なくつぶやいた。こんな時にまで冷静さを失わず苦言を呈する彼に、審神者は激高した。
「どうしてそう……そういうことばかり! こんな時まで!」
「こんな時、だからこそだよ」
「うるさい! すぐ手入れするから! 手入れ部屋を開けて、手伝える者は手を貸して」
 審神者の号令に慌ただしく男士たちが動き出す。
 歌仙の言っていることは正しいのだろう。将として、主として、冷静さを欠いたら致命的だ。ただ今は激情のまま突き進んでしまいたかった。立ち止まったら、手が震えてしまいそうになるから。だから、歌仙の言葉に反抗したことに気づかなかった。審神者に就いてから初めての反抗であった。
「……すまなかったね。こんな姿をみせるつもりはなかったんだ」
 男士達の手を借りて、歌仙は手入れ部屋に横たえられた。審神者は首を振る。こんな弱った歌仙など初めてだった。
 手が震える。いつだって手入れは嫌いだった。彼らが傷を負って帰ってくるのが、まるで自分の無力さの証明のように思えるからだ。自分に力があれば、戦の才覚があれば、彼らはもっと傷を負うことなく戦えるかもしれないのに。
「歌仙……死なないで。すぐ治すから」
「死なないさ。君を置いては先になど逝けない。君は、手のかかる子だから……」
 涙で視界がにじむ。刀の手入れに水気などご法度だと散々注意されたのにこの有様だ。いつもの歌仙なら不出来な審神者だと叱り飛ばしているに違いなかった。
 手入れは夜半までかかった。
 大きな傷は概ね塞がり、歌仙は穏やかな呼吸で眠っていた。審神者は長い息を吐く。手入れ部屋をふらふらと出ると、そこにはかの保護者刀が座り込んでいた。審神者の姿を認めると、ゆるりと立ち上がる。
「お疲れ様でしたなぁ」
「明石、さ……ん……」
 手入れで集中力と気力を使い果たし、気を抜くと倒れそうだった。
「今日はもう、ゆっくり眠り」
 ぐらりと審神者の体が傾いだ。そして誘われるまま、彼の腕の中に倒れ込んだ。

 そうして目を開けたら、そこは布団の中で、例によって隣で明石国行が寝息を立てていた。
 ああ、この景色は前にも見たことがある。
 不思議と悪い気はしなかった。彼は保護者として審神者を庇護してくれているのだろう。なんだかくすぐったい気がした。
「明石さん。起きてください」
「ん……もう少し……だけ……」
 小声で話しかけると、腕に力がこめられる。寝ぼけているのだろうか。額に柔らかい感触がして、審神者は焦る。明石さん、と再度揺り起こそうとしても、その腕に力がこもるばかりだ。
「主さん! 起きてるか? ちょっと話があるんだ」
 部屋の外から愛染の声がする。
「あ、はい……」
 普段は初期刀の歌仙に話が行くため、刀剣達が審神者をこうやって訪ねてくることはほとんどない。歌仙は、とぼんやりした頭で考えたら手入れ中だったことを思い出す。だから現状の把握が遅れたのだ。返事をした後に、部屋の状況を思い出したがもう遅い。スパーンと襖が開かれ、愛染と目が合う。ひと呼吸置き、やがて部屋の中の状況を把握したらしい彼の顔が引きつる。
「げ。何してんだよ国行!?」
「あ、愛染くん、違うのこれは」
「主さんすまねぇ! 国行、帰って来ねぇと思ったらなんで主さんの部屋にいるんだよ!? 謝って済むことじゃねーかもしれないけど……国行、帰るぞ!」
「ん? なんや国俊……朝からほんま騒がしいわ……」
 愛染は有無を言わさず保護者刀の首根っこを掴んだ。そして寝ぼけ眼の明石を引きずっていく。
「歌仙ー!! かーせーんー! 大変だ! 祭りだ……祭りどころじゃねえ!!」
 遠ざかっていく愛染の呼び声に審神者は身をすくませた。本丸で事件が起こったら初期刀に報告される。当然のことだ。これから予想される出来事に審神者は座して待つしかなかった。


 この出来事は本丸中に知れ渡ったらしい。手入れ部屋の前でいち早く知らせを聞いたらしい歌仙の眉間には深く皺が寄り、大げさにため息をつく。
「手入れ部屋あがりなんだけどね、これでも」
 じとっと睨みつけられて、審神者は身がすくむ。
「違うんです……これは、誤解で、誓って何もしてません。ただ明石さんは不甲斐ない私を慰めてくれただけで」
「慰めた……ね。それしきのことで女人の部屋に図々しく入り込んでもいいと思っているのかな?」
 隣に座った明石に視線が移る。彼はいかにも気のない風に「はあ。えろうすんまへん」とだけ言った。
「君、いったいどういうつもりなんだ。僕の刀の錆になりたいのかな?」
「歌仙、だから――」
「主は黙っててくれないか。僕は明石と話をしているんだ」
「おお、怖」
「貴様……!」
 歌仙の瞳に剣呑な光が宿り、審神者はすくみ上がった。いつも審神者を叱りつけるどころではない、抜刀しかねない勢いだったからだ。明石はいつもの飄々とした調子で両手を上げる。
「主はんのおっしゃる通り。なぁんも手出ししてまへん。――自分は来派の保護者みたいなもんですから、弱ってはる主はんが放っとけなかったんやろなぁ」
「はぁ、ぬけぬけと。主は僕が手塩にかけてきたんだ。君のような刀に奪われてたまるものか」
「かせん……?」
 なんだか様子がおかしいと審神者は思った。だが、もっと様子がおかしいのは明石であった。
「主はんは、歌仙はんの娘さんやあらへんでっしゃろ」
 どこか飄々としていて、柳のように敵意をかわすいつもの彼とは全く違う。部屋の温度が下がり、二人の間に張り詰めた雰囲気が漂う。わけがわからなかった。
「貴様……表に出ろ。三十七人目としてその名を刻んでやろう!」
「待って、どうして、どうして――」
 歌仙が刀を抜き放つ。審神者には彼らが何を争っているのかわからなかった。だって明石との間には本当に何もないのだ。せいぜい女人としてのたしなみを注意されてしまいだと思っていたくらいだ。
 刃傷沙汰は止めなければならない。彼らの間に割って入るが、無様にも足がもつれて転がった。
「わ、私が不甲斐ないからいけないんですね? 立派な主じゃないから――。お願いです。立派な主になりますから、その刃を収めてください。お願いします」
 言いながら審神者は震えていた。歌仙の刃が止まらなかったら、自分は。自分が至らないせいで。
 歌仙はきまり悪そうに刀を収めた。
「……すまない。僕としたことが。君を怯えさせるのは、本意ではないんだ」
 明石がそっと審神者の背中に触れる。
「主はんが気に病むことはなんもあらへん。ただちぃと行き違いがあっただけですわ」
 その言葉に再び歌仙がぴりっとするが、審神者が震えているのを見て黙り込んだままだった。


 それから審神者は歌仙に必死に食らいついた。もうあのような無残な敗走をさせるわけにはいかない。自分が至らないせいで本丸内が不和になるような事態は避けなければいけない。本丸の運営を円滑に行えるようになり、一人前と認めてもらわなければ。いつまでも不出来な審神者の烙印を押されたままではいられない。
 あの時から、歌仙は少し丸くなった気がする。結果的に審神者に刃を向けることになってしまったことに対して負い目があるのだろう。あれだけ絶対的な存在として君臨していた彼が、なんだか少し小さくなったように審神者には思えた。
「本当はね、余計なことをしたんじゃないかと思わなくもないのさ。君はいつまでも庇護される存在じゃない、とわかってはいたつもりなんだけどね」
 ある時、歌仙はぽつりとこぼした。
「そんなこと、ないです。歌仙はいつだって私のことを考えてくれて……」
「それは審神者としての話だろう。僕が言いたいのは――いや、いい」
「かせん……?」
 ぽかんとしながら聞き返すと、歌仙は曖昧に微笑んだ。
「手がかからなくなるのは喜ばしいことだけれど、ままならないものだね、ヒトの心というのは……」
 この口ぶりからして審神者の成長は認めているのだろう。だが、歌仙はそれ以上のことは口にしなかった。

 審神者はいつしかあの裏庭には足を向けなくなっていた。ヒトにばかり頼っていてはいけない。自分の足で歩かなければ。それは自らへの戒めでもあった。
 だから気づかなかったのだ、明石が何を考えていたのか。


 そんな折。
 廊下を歩いていると、庭の方から言い争いの声が聞こえてきた。
「だから! 今のは蛍丸がっ!」
「知らないよ。国俊が飛び出していったんでしょ」
 愛染と蛍丸の二人が庭でびしょぬれになっていた。どうやら池に落ちてしまい、その原因を巡って小競り合いをしているらしい。
「俺が勝手に落ちたって言いたいのかよ?」
「僕はそんなに弱くないよ。余計な気遣いだって言ってんの」
「こぉら、いい加減にし。まず着替え」
 傍らには当然のように保護者刀がついていて、仲裁に手を焼いているようだった。
 審神者はその様子につい見入っていた。
 きっとあれが来派の保護者本来の姿だ。彼は二人の保護者で、彼らの面倒を見るのに手一杯なはずだ。そこに自分の入る幕はない、とじわりと心が痛む。
 ……違う。そうじゃない、とかぶりをふる。自分は審神者だ。刀剣男士を統べる審神者のはずだ。こんな状況に手をこまねいて見ているだけでどうするのだ。だから歌仙には未熟だと言われるのだ、と痛感する。その痛みを抱えながら、審神者は池のほとりまで歩み寄っていく。乗り越えなければならない。臆病で弱い自分を。
「どうしたの」
「あ、主さん!」
「二人ともどうしたの? 怪我はない?」
「俺は、別に……」
「国俊が僕をかばって池に落ちたんだ。刀身だけでも見てあげて」
 どうやら小競り合いの原因は、池に落ちそうになった蛍丸を愛染がかばったことらしい。かばわせてしまった、という罪悪感からばつが悪くなり、つい愛染に冷たい態度を取ってしまったようだった。
「わかった。じゃあ手入れ部屋に来てください。蛍丸君も念の為に見ましょう」
「はーい。行くよ、国俊」
「……っしゃ! 俺がいっちばーん!」
 彼らは我先に争うように駆けていく。これでいいだろうか。自分は審神者として、ちゃんと刀剣男士と向き合うことができているだろうか。
 ふと来派の保護者の方を振り返ると、彼は何故か口をつぐんだままだった。


 彼らの刀身は綺麗なものであったが、ただ水没してしまったため、手入れは念入りに行った。
「主さん! ありがとう」
「うん。気をつけてね」
 そうしてはしゃぐ二人を見送る。
「……主はん」
 ひと息ついたところを明石に呼び止められた。
「すんまへんでしたなぁ。うちの子らが手間をかけさせて」
「いいえ、私は審神者ですから」
 審神者であれば当然の責務であった。
 だが、その発言に明石はまた顔をしかめた。思わず不安になり、審神者は聞き返してしまった。
「……何か、気に障るようなこと言っちゃいましたか」
「いや……そういうわけやあらへんのやけど」
 彼は口ごもる。なんだか様子がおかしかった。いつもの飄々とした彼ではない。
「しばらく見ん間に、随分ご立派になられましたなぁ」
「そうだといいんですけど……。あの、明石さんのおかげです」
「自分が?」
「あの時声をかけてくれなかったら、私、潰れてたかも」
 保護者としての彼がどれだけ助けになったか、審神者は力説した。しかし彼は何故かばつが悪そうな顔をする。
「どうしました?」
「何と言ったらいいんでしょうなぁ……」
 言いながら、審神者を腕で囲い込む。ぎゅっと胸に押し付けられる格好になった。
 視界が肌色で埋め尽くされ、チョーカーをつけた喉元がこくりと動くのがわかった。審神者の心がぐらりと傾きそうになる。彼の腕の中は心地よく、このまま体を預けてしまいたくなる。だが、この甘い誘惑に身を沈めてしまうと一人で立てなくなってしまいそうだった。審神者たる者、いつまでもヒトに頼ってばかりではいけない。
「あの……? 私は大丈夫ですよ」
「はぁ、そうきますか」
 あの時、彼はこうやって審神者をあやしてくれた。だが、今の審神者は弱ってはいない。抱きしめられる理由がない。あの頃のような道に迷った幼子ではないのだとやんわりと固辞するも、彼は手を離そうとしなかった。
 明石の手が、優しく背中をさする。幼子を慈しむようで、それでいてどこかくすぐったい。
「自分、来派の保護者ですけど、主はんの保護者やと思ったことは一度としてありまっせん」
 じわりと熱がこもり、その手は別の意図を持ち始める。審神者の髪をすくい上げると、くるりと一房を指に巻きつけ弄ぶ。髪はするすると彼の指に沿ってほどけていく。
「そ、それはどういう……?」
「わかりまへん?」
 ――男が女に優しゅうする理由なんて、だいたい一個しかないんや。
 耳元で囁かれて審神者は目を見開くが、今更意図を打ち明けられても逃げ場などない。彼の胸に顔を押し付けたまま、体温が上がっていく。
「わ、わ、そんなっ……」
「そないに暴れんでも、いつもこうしてたやんか。なーんも変わらんよ」
「だ、だって。違う」
 そう言われても意味が違う。彼は自分のことを保護者だと自称し、審神者もそう信じていた。だからこそ安心して身を預けていたというのに、彼はそれを翻した。
 もがくと、彼はあっけなく手を離した。勢いで体は三歩ぶん離れる。
 美形揃いの本丸で生活していて忘れそうになってしまうが、明石はとても見目が良い。その彼が男としての感情を審神者にぶつけようとしている。にわかに信じがたいことではあった。
 彼は笑っている。けれどもとても悲しそうな顔をしていると、審神者は思った。
「……はぁ。保護者の立場でいた方が正解やったかもわからん。失敗しましたわ」
「あの……」
「ええよ。早う行き。……もう保護者として頼ってくれへんのやと思たら、焦ってしまいましたわ。しゃあない。うちの子達の面倒見てくれておおきに」
「そんな。明石さんはいつだって頼りにしてますし……」
「そういうのはもうええ。自分は頼りにされるほどのもんやあらへん。これでわかったやろ」
 そうして明石は手を振る。審神者は立ちすくんだ。わかるのは、ここでこのまま彼と別れたら、もう二度と個人的な関係にはなれないだろうということだけだ。
 どのような意図があったにしろ、彼の腕の中はいつだって心地よかった。そう考えたら、迷わなかった。
「そんな悲しい顔をしないでください!」
 そう言い、一歩を踏み出した。そして彼の腕ごと体中を抱きしめる。華奢に見えて、意外としっかりした肉付きの体に顔を埋める。
 これが恋と言っていいのかはわからないけれど、こんな悲しそうなヒトを放っておけない。そう強く思った。
「主はん。取って食いますよ」
「か……構いませんとも!」
 頭上で、ぷっと吹き出す音が聞こえた。明石が笑っている。笑顔が戻ってきて審神者はいくらかほっとした。
「っはは。随分男前になりましたなぁ」
 そう言い、明石は顔を寄せる。
 彼は審神者の前髪をかきあげて、手櫛で流していった。そういえば以前、額に軽く唇が触れたのは、あれは意図的なものだとしたら。それに思い至った瞬間、ちゅっ、と優しい音がして額に柔らかな感触がした。身体中の血が煮えたぎるように熱くなる。そして続いて頬へ。優しい、柔らかい感触がした。
「あ、あの、明石さん」
「知らん。丸腰で飛び込んでくるからや」
「いえ、そうじゃなくて……」
 その先は声にならなかった。なぜなら唇で塞がれてしまったからだ。ちゅっと音を立てて吸われる。審神者は抵抗したが、彼の拘束は思った以上に強く、なかなか離してくれない。ねっとりと熱烈な愛をぶつけられて意識を飛ばしそうになるが、それとは別に気が気ではなかった。
 ようやく拘束が解かれ、審神者は慌てて押しのける。
「そ、そうじゃなくて! 見てますから! 蛍丸くんたちが――」
「はあっ!?」
 明石が勢いよく振り向くと、蛍丸と愛染がそっと様子を窺っているのが見て取れた。
「あーあ、妬けちゃう。なんてね」
「国行もたまにはやるじゃねーか」
「うそやん……。あかん、かっこ悪ぅ……」
 明石が両手で顔を隠した。どうやら保護者としての矜持があるらしく、彼らに見られたことで予想以上のダメージを負っているようだった。そんな親心も知らず、蛍丸がのんびりした声をあげる。
「ちょっと心配してたんだー。最近、元気なくなってたから」
「そうだったんですか……?」
 もしかしたら自分のせいなのかもしれないと頭をよぎる。いつも自分のことばかりで、明石のことを考える余裕などなかったが、彼は待っていてくれたのかもしれない。あの裏庭で、たまに審神者がやってくるのを。
 明石の表情は窺えなかったが、ちらりとのぞいた耳が赤く色づいているのが見えた。
「蛍丸。そないなこと言わんでええ」
「俺だって心配してたんだからな! 主さんとそんな関係だなんて知らなかったから、余計なことしちゃったかと思ったし」
「いやっ、あの、あれはっ」
 愛染に言及されて、審神者もつられて赤くなった。改めて指摘されると、よくヒトの胸を借りて寝られたものだと思う。今思えば確かに危機感が足りなかった。
「でも今度からは、明石さんが弱ってたら助けになれるように頑張りますから。あっ、明石さんだけじゃなくて皆さんもですけど……」
 まだまだ未熟な審神者だけれど、少しは成長しているだろうか。
 明石は眩しそうに審神者を見た。
「ホンマに、ご立派になられたことで」

 ――でも、たまには甘やかさしてくださいよ。胸貸してあげますさかい。
 ――私もですよ。明石さんが泣きたくなったらぎゅっとしますから。
 明石が顔を寄せてきて、そっと耳打ちしてきた。審神者がこそっと返すと、ぺしっと肩を軽く叩かれた。照れているのだ、と思った。
 前を歩く子供達はやれやれ、と聞かなかった振りをした。